色の歴史 世界編 5では、17世紀のバロック時代の美術や色についての文化をみてきました。

ここでは、ロココ時代の18世紀に流行した色やロココを流行らせたロココの女王たちについてみていきます。

ロココ様式とは

貝殻や石等をはめ込んで作った岩を意味する「ロカイユ」という言葉が語源となっています。

ロココ様式は、1710年代から1760年代までのヨーロッパ、とくにフランス宮廷を中心にみられる美術様式のことを言います。

ロココ美術は、貝殻細工のような「白」と「曲線」の二つの特徴があり、建築物や室内装飾、家具調度、椅子、鏡、絵画、衣裳、ウィッグなどのあらゆるものに表現されました。

ロココ様式が流行した理由

ロココ様式の流行は、太陽王と呼ばれたルイ14世が死去したことで、その支配から自由になった貴族たちが、それぞれの邸宅に戻り、荒れ果てた屋敷をリノベーションすることがきっかけに始まりました。

ルイ14世時代の厳かで豪華絢爛なバロック様式から、優雅で親しみやすく、リラックスできる空間であるロココ様式になることで、インテリア全体が柔らかく女性的な印象に変化していきます。

プードワールの流行

ロココ様式の発展に影響を与えたのが、ルイ15世時代に流行した「プードワール」と呼ばれる隠れ家的サロンです。

ルイ15世の愛妃たちは「プードワール」か「鹿の園」という別荘に住まわせ、国事すらそのサロンで論じたといいます。

ロココの色彩

白…この時代、特に白いことは、この時代の美の基準であり、男性の化粧や鬘(かつら)の流行にも表れます。17世紀は男性的な黒の鬘(かつら)が流行しましたが、18世紀の貴族社会の男性は、白い白粉を顔に塗り、白い鬘(かつら)を着用しました。

白い髪粉は小麦粉で作られ、白くこんもりと高い鬘を男女ともに愛用しました。そのため、フランス革命が起こる前、パン不足なのに、貴族が鬘のために小麦粉を大量に消費したため庶民が怒りまくります。

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この時代男性も女性も飛び切り白い肌に口紅やほお紅を付けることが流行したそうです。そしてこの時代ならではの流行がつけぼくろ。つけぼくろを付けることで肌の汚れや顔のシミなどを隠すのに役立ったそうで、星型や太陽、月など様々なほくろがあったそうです。

ロココファッション

巨大化する頭…

17770年代になると、ドレスのパニエと競い合いながら髪型も次第に大きくなります。あまりの大きさに顔が全身の真ん中の位置に来るほど。

さらに女性の頭は、風景や花壇に変わり、小川が流れ、馬車や果物かごがあらわれ、さらには軍艦が頭に乗る始末です。

そのため、女性は、場所の中では体を二つにおり、ひざまずかなければならないほどでした。

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ペストが流行った中世以降、ヨーロッパではお風呂に入ることが逆に不衛生と思われていたこの時代…。皆さん思いますよね…、かゆいんじゃないかなーって。そうなんです。この時代はしらみとノミはお友達ということで、かゆい場所を指でたたくのは許されていましたが、爪でかくのはエチケット違反。しらみ搔き棒は一人でいるときだけ使用可、ととにかくおしゃれは大変です。

ロココの女王たち

18世紀は女性の時代でした。女性は社交界では全面的に尊敬の対象です。特にその主役は、ルイ15世の愛妃マダムポンパドールやデュバリー婦人です。

マダム・ポンパドール

またルイ16世皇帝妃マリー・アントワネットなどです。

マリーアントワネット

社交界の花形の貴族階級の婦人たちが開くサロン社会には、高貴な階級の婦人や令嬢は言う及ばず、哲学者や文学者、詩人、音楽家などが招かれ、優雅な遊びに興じ、音楽や演劇、詩、舞踏会などの楽しい催しが開催されていました。

特に、ロココの女王といわれるマダム・ポンパドールとマリーアントワネットについてみていきましょう。

マダム・ポンパドール

フランソワ・ブーシェ 「ポンパドール婦人」

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自らの設計で宮殿の家具調度や室内装飾品を整え、衣裳を選択し、その色や模様を決めたといわれています。

ポンパドールが庇護した芸術家は、アントワーヌ・ワトーや、フランソワ・ブーシェ、オノレ・フラゴナールなどのロココの芸術家で、彼らが活躍して華麗で優雅なロココスタイルや色彩が確立していきます。

ジャン・オノレ・フラゴナール

「ブランコ」

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色彩において、初めて女性と深くかかわり、その意味を持ったのは、ヨーロッパではロココという華やかなサロン社会からでした。

マダム・ポンパドールの色彩
・ローズピンク…

マダムポンパドールはバラの花を愛好したことからローズピングが人気を集めます。この時期のリヨンの絹織物はローズピンクの絹織物がよく登場することになります。

ロイヤルブルー…

フランス・ブルボン王朝のシンボルカラーはロイヤルブルーだったので、ロイヤルブルーは王室以外では使用が禁止された禁色でした。

セーブル磁器の色彩

日本からヨーロッパへ輸出された伊万里や柿右衛門などの日本の磁器は、絶大な人気を博します。

フランスのセーブル磁器は、ドイツのマイセンや日本の磁器の模倣から始まりますが、「ローズポンパドール」「セーブルブルー」といわれる色彩の見事さと、芸術性の高さや華麗で繊細な金彩文様の高度な技術により、セーブルの名声を高めました。

・ポンパドールピンク…

ポンパドール婦人はことのほか磁器を好み、自国内にセーブル王立磁器製作所を設け、フランス磁器の推奨と振興に勤めます。このセーブル磁器の科学者、J・エロ―によって、美しいピンクが開発され、ポンパドールピンクと名付けられます。この色はエロ―の死後は製法がわからず、ほかのヨーロッパ諸国に伝わることがなかったため、その後使用することが出来ませんでした。

 

ポンパドールピンク

 

マリー・アントワネット

ルイ16世の王妃、マリーアントワネットは、その時代のまさにファッションリーダーでした。アントワネットが好んだものはすぐに流行になります。

アントワネットが流行らせたもののいくつかを紹介します。

モード商人

フランスでは、1776年、モード商人組合が結成され、独占的な権限を持っていました。特にローズ・ベルタン氏はマリーアントワネットに気に入られ、当時の貴族階層への影響力が極めて大きく、盛時には「フランス・ファッション大臣」と呼ばれるほどになります。

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ローズベルタン氏は、マリーアントワネットから「私の衣裳大臣」と呼ばれるほど気に入られたそうです。まさにフランスのファッションデザイナーの祖といえる存在です。

マリーアントワネットのファッション…

絢爛たる宮廷では、大きなパニエの絹のどれそを着ていましたが、人工的な豪奢なベルサイユ宮殿のうわべだけの人間関係に囲まれた暮らしは、マリーアントワネットには、とても息の詰まるものでした。

そんな堅苦しい宮廷生活に嫌気がさしたマリーアントワネットは、社交生活を抜け出して、夫のルイ16世にプレゼントされた、プチ・トリアノン宮殿の田舎風別荘での生活を愛します。

プチ・トリアノン

そこでは、木綿の簡素なシュミーズドレスをまとい、大きな麦わら帽子をかぶり羊飼い遊びに興じます。

1775年ごろにこのような白い木綿のドレスで、王妃風シュミーズドレス(シュミーズ・ア・ラ・レーヌ)は、次の時代の古代ギリシャ・ローマ的な美を理想とした、単純性や装飾性を拒否した新古典主義様式のエンパイヤドレスの先駆けになります。

アントワネットが好んだ色
マリーアントワネット (ピンク)…

ルイ王朝では、衣裳のみならず、家具や陶磁器などにピンクが流行しましたが、その頂点にいた王妃を象徴する色として、王妃の名前が付いたピンクです。

マリーアントワネット

ピュス(ノミ色)…

ローズベルタンが作った茶色のドレスをアントワネットが気に入り、そのドレスを注文したところ、その色を見たルイ16世が「ノミ色」と名付けて流行した色です。このノミ色はフックスの「風俗の歴史」にて、専制主義の色彩という項目で「ノミ色」について述べています。

ピュス
フックス「風俗の歴史」

ある期間、ピュス色(ノミ色)が一番人気のある色になった。そして誰もがピュス色の服を着た。この色には細かい濃淡があり、その名前は「ノミ、ノミの頭、ノミの背中」あどのような分類があった」

と女王が着たノミ色のドレスをみんながこぞって真似したことがうかがえます。

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赤字婦人といわれたマリーアントワネットでしたが、服の好みをみても実はとても自然が好きなナチュラリストなんですね。そのため、ナチュラルな茶色を好んだというのもうなずけます。

まとめ

いかがでしたでしょうか。ロココ時代は女性の華やかな文化が頂点を極め、困窮した庶民たちによってフランス革命へと時代が変換していきます。

なお、次では、ロココ時代の華やかな文化の裏側で、光学の研究が進み、ニュートンによる光と色の関係が明らかになり、また、世界最初の色材の三原色による印刷など、色彩学の基礎的内容が発見される時代でもあったのでそれについてまとめてみたいと思います。