色の歴史 世界編 3では、人間復興のルネサンスの時代の色を見てきました。
ここでは、ルネッサンス期の次の時代、光の世紀といわれる17世紀「バロック時代」の中心の国になったフランスを見ていきたいと思います。この時代にフランスはモードの国になりました。どのようにしてファッション産業がフランスで栄えたのかを見ていきましょう。
1.絶対王政とは
Wikipedeiaでは、歴史的に、中世までの諸侯や貴族、教会の権力が地方に乱立し、分権的であった状態から王が絶大な権力をもって中央集権化を図り、中央官僚と常備軍(近衛兵)によって国家統一を成し遂げた時代に特徴的であった政治形態を示す、とあります。
「王権は神から国王に授けられたもので、その権力は神聖で絶対的なものである」とする政治思想の「王権神授説」を援用して、王権を強化した政治形態です。
とくに、フランス・ブルボン王朝のルイ14世、ルイ15世による専制主義の支配が確立して、絶対王政の美術としては、このブルボン王朝によるものが中心となります。
2.「太陽王」と呼ばれたルイ14世
フランス・ブルボン王朝の国王(在位1643~1715年)。「太陽王」といわれたフランス絶対王権の全盛期の国王。
ルイ14世は23歳で親政を宣言し、内政、外交に自ら積極的に統治します。
ルイ14世の当時のフランスでは、人口約2000万でヨーロッパ随一の国力を持ち、ヨーロッパ最大の陸軍力を発揮し侵略戦争を続け、領土拡張を実現していきます。そして、現在のフランス領土とほぼ同じ範囲を領土にします。
またルイ14世、15世は自らの君主としての威令を誇示するために、宮廷建築のみならず宮中の儀礼や社交、服装まで偉大さやポーズなどに権威を賦与しことさらに仰々しく見せました。
国力の充実を示す事業として、ヴェルサイユ宮殿などを造営しました。
ヴェルサイユ宮殿は、主要部の長さが400mあまりで、付属建築を含む南北の全長が900mを超える壮大な建築物です。その中央に位置するのが「ルイ14世の間」で、その他にも「鏡の間」「平和の間」「女王の間」など豪華絢爛なバロック空間を構成しています。
ルイ14世が言った「陳は国家なり」有名な言葉ですね。その言葉から絶対王権の在り方を示しています。
ルイ14世について
①とても勤勉な人だった…
彼はとても勤勉なことで知られていました。生活は規則正しく、規則に厳格、武芸や狩猟といった体を動かすことも好んだといいます。そんな勤勉さから「官僚王」とも呼ばれたそうです。
②お風呂に入ったのは生涯で2回か3回であった…
当時「裸になる」ということは、たとえ入浴であっても非常に恥ずかしい行為だとされました。水を浴びる習慣自体がなかった当時は、香のあるパウダーをはたいたり、アルコールをしみこませた布で、顔や体を拭いたりしていました。
14世紀のヨーロッパでペストが蔓延し多くの死者が出ました。今ではペスト菌はネズミが運ぶことが有力な説ですが、当時は水が原因だとされました。そしてあっという間に「水と湯は憎むべきもの」となり、肌は極力ぬらさないことが推奨され、顔さえ洗わないことが当然の生活となり、その期間はその後も約400年及んだといわれます。
③歯が一本もなかった…
ルイ14世の侍医は「歯がすべての病気の温床である」という説を主張していました。そのため、ルイ14世は12回も手術を重ねた末、歯を1本残らず抜かれてしまった、といいます。その結果、うまく食べ物を咀嚼することができず、消化不良気味になったとか。そして毎日のように下剤を飲まざるを得ず、王位に就いた数十年の間便意と戦い続ける羽目になったそうです。部下はハンカチに香水をしみこませ、その匂いに耐えていたそうです。しかし、意外にもこの奇妙な国王のスタイルは臣下から尊敬を集めていたそうで国王をまねて便器に座りながら仕事をする人までいたそうです。
④バレエをたしなんでいた…
ルイ14世はバレエにとても造詣が深かったといいます。幼いころからバレエをしていて、4歳の時に即位した際のパーティでも彼自身が出演しました。また、1653年にプティブルボン宮で上演された「夜のバレエ」で、14歳のルイ14世は「太陽アポロン」となって登場します。そこからルイ14世は「太陽王」の異名が付きます。その後も32歳までバレエの舞台に立ち、舞踏会では41歳まで見事なダンスを披露したと伝えられています。
⑤ウィッグを流行らせた…
フランス宮廷にペリウィッグ(かつら)を取り入れたのはルイ14世です。これは自分の毛量が少なかったことを隠すため、といわれていますが、かつらは権威と人格を象徴するようになり、教養のある紳士は、かつらなしで人前に出ることはしなくなります。
1680年にはかつらはとても凝ったものになります。男性用のフル・ボトムの鬘はひどく大きく重かったのですが、必需品とみなされました。
⑥背の低いことを気にしていた…
ルイ14世は身長が160㎝ほどしかなく、身長が低いことによって王の威厳が損なわれることを非常に気にしていた、といいます。そのため、ウィッグ(かつら)を着用するときも、必要以上にフサフサに仕立ててみたり、靴もハイヒールを履いてみたりしていました。
ファッションリーダーのルイ14世。ルイ14世が行ったことはすべて真似をされていきます。ヒールのついた靴も「ルイヒール」とよばれ、ヒールのある靴を当時の男性は当たり前に使っていました。
⑦ダイヤモンドを広めた…
当時、最高の宝石はパールでした。しかし、ルイ14世はその時代にダイヤモンドのカット技術が向上したのもあり、ダイヤモンドを非常に好んだとされています。そのおかげでパールよりもダイヤモンドのほうが値段が上がりました。
今でこそ、ダイヤモンドというと最高の宝石のイメージですが、これはルイ14世が広めたことだったんですね。
3.バロックの時代とは
17世紀は「バロック時代」といわれますが、この「バロック」はポルトガル語の「Barroco」が由来とされ「歪んだ真珠」という意味です。それは前世紀のルネッサンス時代のような、正円の様に均整がとれて、調和した端正な美術なのに対し、不均整、不調和、装飾過多なこの時代の美術のことを指します。
このバロック美術は「絶対王権」の威光を背景に、建築、絵画、工芸、音楽などのあらゆる分野に普及しました。
とくに、フランス・ブルボン王朝のルイ14世、ルイ15世による専制主義の支配が確立して、絶対王権の美術としては、このブルボン王朝によるものが中心となります。
4.バロック時代の色彩
バロック時代は、絶対君主の権威を象徴する色として「黄金」が好まれました。ヴェルサイユ宮殿は「現人神(あらひとがみ)」としてのルイ14世の偉大さをよく表しています。
特にヴェルサイユ宮殿の「ルイ14世の間」ではその鮮やかな黄金色であふれ、当時の面影を今に伝えています。
そして、その黄金を引き立てているのは、専制君主にふさわしい「重厚な色」が必要とされ、ルネッサンス時代には見られなかった「重厚な色=ダークカラー」が好まれました。
17世紀のブルボン王朝や宮廷の衣裳では、豪華な布地を用いられますが、それはリヨンで数多くの絹織物がつくられていました。
そのリヨンではほとんど臙脂色(えんじいろ)の地色に黄金色系の柄が施されています。
この頃作られたリヨンの織物は、臙脂色以外では暗い青や紫、緑といった色が背景色でその上に黄金色で柄を施し、より一層黄金が目立つように配色されていました。
5.コルベールの重商主義
フランスのファッションは、イタリアに素材を依頼していたスペインファッションと違い、最初から国内のモード産業による利益を意識していました。
①フランスのモード産業の基礎を作った人物 ジャン=バティスト・コルベール(1619-1683)
フランス・ブルボン王朝全盛期のルイ14世の絶対王権を支えた財務総監(財務長官、大蔵大臣)です。ラシャ商人の息子でしたが、マザランに仕えて頭角を現し、マザランの死後、1662年財務長官になります。
コルベールが展開した典型的な重商主義政策を推し進めたので、その経済政策をコルベール主義ともいいます。
重商主義政策について
・国内生産の保護…
毛織物、絹織物・絨毯・ゴブラン織などの産業に加えて、兵器やガラス、レース、陶器などの産業をおこし、国立工場を設立して特権的なマニファクチュア(工業制手工業)を育成します。(その一方で労働者の同盟とストライキは禁止しました。)
・海外進出…
インド、北アメリカ、中米、アフリカなどに植民地を獲得しました。北アメリカには広大なルイジアナ植民地を開発し、また、中米ではアンティーユ諸島にタバコ、綿、さとうきびの栽培を黒人奴隷によって行われました。インド経営のために1664年にフランス東インド会社を創始し、さらにアメリカ新大陸との貿易を専門とするフランス西インド会社も設立しました。
・文化の保護
1666年には「王立科学アカデミー(フランス科学院)」を設立し、また別に「王立芸術アカデミー(フランス芸術院)」も創設しました。
6.モードの国フランスの礎を作った時代
コルベールは1667年に、リヨン王立織物製作所と王立レース工場を相次いで設立します。また華麗な衣裳に不可欠なシルクのための養蚕業が、この頃リヨン近郊の農村を中心に軌道に乗せます。
・レースの発展…
17世紀以降ヨーロッパにおいては、軽やかな生地が好まれ絹織物が人気を博し、北イタリアで発展します。また、絹織物と同時に人気があったのがレースで、イタリアのヴェネツィアで発展します。ベネツィアではその技術を国旗機密としていましたが、これに注目したコルベールはヴェネツィアから秘密裏に技術者を招き、1665年北フランス各地に設立した王立マニュファクチュア製のレースを「フランス刺し子」と呼び、その後フランス各地に技術が広まりました。
・絹織物…
1667年にコルベールはリヨン絹織物について、品質管理や業者登録などの規制を定めます。こうした梃入れがあり、18世紀にはリヨンがヨーロッパ絹織物産業の中心地になります。