色の勉強をしていると色の視点から見た日本や世界の歴史を勉強することになります。

ここでは、日本が律令国家として形作られた飛鳥・奈良時代の色についてみていきましょう。

飛鳥・奈良時代とはどのような時代だったのでしょうか?

 飛鳥時代

6世紀に中国から仏教が伝来すると、飛鳥・斑鳩(いかるが)地域で最初の仏教文化が花開きます。

この時代に日本で初めて飛鳥寺(588年)や法隆寺(607年)など豪壮な寺院が建立されました。

また、初代女帝の推古天皇の即位とともに、摂政になり政治を司った聖徳太子(厩戸皇子)は、仏教を国の教えとし、天皇を中心とした国家を建設しようとします。中国の隋などの政策をその手本として、推古天皇と聖徳太子(厩戸皇子)が制定した、十七条憲法(604年)や 冠位十二階の制定(603年)、国史の編纂(へんさん)を行い、地方との政治的関係を整理する一方、遣隋使(けんずいし)や遣唐使(けんとうし)を派遣するなど海外にも意識を向け、国家として動きはじめたの時代です。

推古天皇

 奈良時代

飛鳥時代から引き続き、天皇を中心とする中央集権体制をより進め、本格的な都城である平城京の建設(710年)、大宝律令(たいほう りつりょう)など律令制の確立(701年)、 古事記や日本書紀の編纂、また 国衙(こくが)や郡衙(ぐんが)など役所を整備して租税の徴収を行います。

絹の歴史

*日本に影響をもたらした中国の文化の染織の文化。その中でも絹はシルクロードをつくり、世界中に広がります。

その絹がどのようにしてつくられたかをまずは見てみましょう。

絹の伝説

およそ四千数百年ほど前、中国に偉大な帝王として伝説的な崇拝を受けている黄帝という帝王がいました。生活用具(衣服、舟、車、家、弓など)を次々に発明し、また、薬草を人民に与え、健康の管理をするなど、仁政を行いました。

ある日のこと、その妃の西稜氏は、蛾が繭を作っているのを見て、家に持ち帰り湯に落としてしまったところ、それを箸で拾い上げたら、繭がほぐれて光沢のある糸が1本出てきました。その糸はとても長くつややかなので、それを織物にして着ると美しい衣になりました。…これが絹の誕生といわれています。(諸説あります。)

 

こうして中国の絹産業はより一層の発展し,絹は金の重さと同量で取引されるなど、シルクロードを通って、東西南北様々な地域に広がっていきます。

日本の染織の黎明期

①染織技術の発達

日本の染織がその変遷の中で画期的な発展をしたのは、倭の五王の時代であるといわれています。

倭の五王が朝貢した中国では、紀元前三百年くらいから、かなり高度な染色技術や養蚕技術を行っていたため、次第に日本にも渡来人が入るようになり、それらの技術が伝えられたといわれています。この時代、日本から中国に使者を使わして機織り技術者の派遣を要請していたことが、日本書紀に記されており、その一団が住吉津(すみのえつ:現在の大阪市)に到着したことが書かれています。

そして、その時代に中国から紅花や藍、紫といった色を染める技術ももたらされています。

②養蚕技術の発達

日本における染織の発達の上で重要なことは、秦氏という渡来人の存在です。古代の渡来人の中で、秦氏は有数の勢力で五世紀に半島から集団で日本にやってきたといわれています。卑弥呼の時代から養蚕をして絹を生産していましたが、その技術を各地に広げ、大規模に養蚕できる体制を作ったのが秦氏といわれています。この秦氏の養蚕技術に加えて染色技術者らの渡来によって、日本にも華やかな色の糸が染められ、美しい布ができる条件が整ったのです。

五行思想と冠位十二階の制

①5,6世紀に華やかな絹織物を作る基盤ができる

秦氏の養蚕の普及と染織技術者の渡来により染色技術は格段に発達しました。これにより朝廷や高位な人々のための鮮やかで華やかな絹織物が盛んにつくられるようになります。

やがて奈良を中心にした大和朝廷ができると、渡来人が次々にやってきてます。そして染めや織にかぎらず、紙をすく技術などの職能集団が形成されていき、より一段と高度な文明社会が営まれていくようになります。

②冠位十二階の制度

6世紀の終わり、豪族の中で抜きんでいた蘇我氏の擁護のもとに即位した女帝、推古天皇は、甥の聖徳太子(厩戸皇子)を摂政として政治を司ります。

太子はより強力な国家をつくるため、603年に冠位十二階の制を、604年に十七条の憲法を制定します。

それは、仏教を敬い、国家を形成する役人には、国家の主たる天皇に服従して政務に当たることを義務付けて、位を定めてそれに従うようにしたものです。

③冠位十二階の制度の色

冠位十二階の制は、聖徳太子によって制定されたわが国初の冠位です。この色は五行思想の五色(青、赤、黄、白、黒)をもとに、その上に紫を置き、その六色の濃淡で十二階としています。またその位は「徳・仁・礼・信・義・智」という儒教的な六つの徳目をそれぞれ大小に分けて(大徳・小徳、大仁・小仁…など)十二階としています。

④五色が意味するもの

五行思想の五色(青、赤、黄、白、黒)の青、赤、黄は色料の三原色として物体色を作るもとの色になります。つまりこの青・赤・黄があれば、白以外のすべての色を作ることが出来る色であり、このことから日本においても、6世紀には各色を染めだす技術が完成されていたことを意味しています。なお、それぞれの染料は、青=藍、赤=紅花、黄=刈安の染料となり、これらの色をもとの色として様々な色を染めだすことが出来たと考えられます。

⑤紫のポジショニング

高貴な色とされる紫ですが、中国の五行思想の五色の中に紫はありません。しかし、中国には紫を尊ぶ風潮があり、孔子の論語には

「紫の朱を奪うを憎む」とその風潮を嘆く一文があります。

中国で紫が好まれたのは、前漢の武帝によるものとされています。武帝は特に紫を好む、天帝の色として他のものに使用を禁ずる「禁色」にしたとされています。そして自らの住まいを紫宸、紫極とあらわすようになり、それ以降中国では紫が最高位の色になったとされます。

*またシルクロードの出発点ギリシャ・ローマでも皇帝は紫を愛用しています。ギリシャ・ローマでは紫はアクキ貝という貝から紫を染めていましたが、1gの染料をとるのに2000個の貝紫が必要なのでその貴重性と、紫の妖艶な美しさから珍重され、特にローマ帝国の帝王に愛され、「帝王紫」として高貴の色として愛用されました。

奈良時代の宝物殿 正倉院

飛鳥奈良時代の色の文化は、今も斑鳩の法隆寺に伝えられている数々の宝物から知ることが出来ます。

 

①玉虫厨子(たまむしのずし)

法隆寺大宝蔵院に展示されている数々の宝物の中でも、最も広く知られて日本工芸作品の「名宝中の名宝」の1つが玉虫厨子です。

厨子とは、仏像,仏画,舎利,経典などを安置する屋根付きの入れ物をいいます。玉虫厨子の第一の特色は、仏堂をそのまま台座にのせたような形になっていることです。

そして、玉虫厨子を際立たせているのは、何と言ってもその名の由来になった玉虫細工です。細工がほどこされているのは柱や宮殿入り口部分で、虹色の縞模様を見せる玉虫の羽が入れられており、それを唐草模様の透かし彫りの金具で重ねるというものになります。

また、厨子に描かれている絵もまた見事で、宮殿の側壁やその下にある須弥座と呼ばれる部分にさまざまな仏教絵が描かれ、厨子が単なる工芸品ではなく、仏教の教えに従った調度品であることを物語っています

ちなみに、法隆寺の玉虫厨子はもともと推古天皇の愛用品であり、仏像を安置するための厨子をタマムシの光輝美しい羽で装飾したことからついたと言われています。

②繧繝彩色(うんげんさいしき)

正倉院の宝物の中に供物を載せる華形台の華の形の足、つまり華足(けそく)に施された繧繝彩色をみることができます。繧繝彩色は、色のグラデーションを様式化した方法で、同系色の色彩の濃淡を、暈(ぼか)しを入れず段階的に彩色することによって立体的効果を生み出す工夫です。外側の薄い色から内側(中心)に向かって濃い色にする彩色で、その逆に塗ることを「逆繧繝彩色」と言います。   

華足の輪郭にそって白色の区画を設け、次に緑青を細帯状に中心に向かって順次濃く数段に塗り分け、そして最も濃くした芯部に墨を置いています。立体的な華足は、この繧繝彩色によって、一層盛り上がり感を強くしています。

③天平の三纈(さんけち)

インドまたは中国によって発明された、といわれています。布に蝋(ろう)のような水を弾くものを塗る﨟纈(ろうけち)、布の一部を糸で強く縛って液の浸透を防ぐ纐纈(こうけち)、板で挟んで染める纈(夾)纈(きょうけち)の3種類の染色方法です。

中でも多色で染められている纈(夾)纈(きょうけち)は、染めたい文様を板に彫り上げて染料が入るように多数の穴をあけ、2枚の板で布を挟み、色によって穴に栓をして染める方法で、この方法はかなり高度な技を用いられていて、シルクロードの終着地点の日本は、この時代において世界的水準に達しているといわれています。

これらは仏教とともに日本にもたらされたもので、この正倉院の宝物、玉虫厨子(たまむしのずし)や繧繝彩色(うんげんさいしき)、三纈(さんけち)などから、中国をはじめとする様々な国の様式を伝えているものであり、これらの作品からシルクロードを経て中国や西洋の風俗・自然・文様を日本で見ることが出来る大変貴重なものになります。

まとめ

いかがでしたか?

飛鳥・奈良時代という古い時代のものでも、実際に目で見ることが出来ることは素晴らしいことですね。

この時代の染織文化は現在の技術を持っても作成できないと、染色の先生はおっしゃっていました。

コロナが終息して旅行に行く機会が増えてきたとき、ぜひこうした文化遺産を見て昔からの染織の文化を感じることが早くできることを心から祈りたいですね。