色の勉強をしていると色の視点から見た日本や世界の歴史を勉強することになります。
江戸を造営するにあたり、その指導的役割を担った天海僧正は、都市計画を行う際に四神対応や陰陽五行説を張り巡らせ、異界からくる邪気をはらうための対策を徹底的におこないました。
ここでは、天海僧正がどのような仕掛けをして、江戸幕府が栄えるように都市計画を行ったかを見ていきたいと思います。
江戸時代とは
江戸時代の期間は1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の江戸)に幕府を樹立してから、1868年10月23日(慶応4年)の「一世一元の詔」の発布に伴い、慶応から明治に開眼されるまでの265年間を指します。
江戸の都市計画
1570年(天正18年)、徳川家康は、豊臣秀吉によって江戸に転封(てんぽう)を命じられますが、その頃の江戸は武蔵野台地の東南に位置して、山林と谷が錯綜し、代用の入り江と大地が入りくまれた未開の地でした。
*転封…知行地、所領を別の場所に移すこと。
そもそも「江戸」とは「入り江の入り口」という意味で、1457年に室町時代の武将、太田道灌が建てた江戸城を中心に、前は日比谷の入り江と、数多くの河口を利用した一地方都市でしかありませんでした。
1603年(慶長8年)に征夷大将軍となった家康は、江戸に幕府を開くと、江戸を全国の政治・経済・文化の中心地にするために本格的な都市計画事業を開始します。全国の大名には諸工事「恩手伝普請」が賦課され、諸国の大・小名に命じて、老朽化した城の改修とともに、江戸の地形を改造します。
「恩手伝普請(おてつだいふしん)」とは、工事を諸大名に担当させて、その費用の一部を負担させるることです。こうして諸大名の力を弱める政策を幕府はとったんですね…。
まず、江戸城の東にある神田山を掘り崩して砂洲や干潟の低湿地を埋め立て、物資を運搬する掘割を作るとともに、現在の日本橋から銀座に至る幹線道路を完成し、城下町建設に努めます。この工事では、城郭拡充用の水路を東に延長して日本橋川を開き、日本橋が架けられ、1604年には、日本橋に五街道の起点が設置され、江戸に人や物が流入されるようにしていきます。
実はこの神田山からはじめた、というところに重要な意味があるんです。その意味はこの後わかりますよ!
四神相応や陰陽五行説などによる徹底した呪術的都市計画
江戸を開発するにあたって、家康、2代目秀忠、3代目家光は京の都をモデルに江戸設営をします。それは桓武天皇から始まる、中国から伝来した四神相応と陰陽五行説による造営都市でした。
① 江戸の都市計画を行った人 天台僧・天海僧正
この街づくりを進めるにあたって家康には助言者がいました。これが宗教政策担当のブレーン、天台僧・南光坊天海その人です。彼が江戸の発展を仕組んだ張本人といわれています。
カラーコーディネーター 涼子
天海僧正は、本当は明智光秀だったのではないか?などと言われる謎が多き人物です。徳川家康公から絶大な信頼を得て江戸幕府の宗教行政を担当します。108歳まで生きた天海僧正は、家康、秀忠、家光と徳川家三代に渡って使えました。
天海僧正は、本当は明智光秀だったのではないか?などと言われる謎が多き人物です。徳川家康公から絶大な信頼を得て江戸幕府の宗教行政を担当します。108歳まで生きた天海僧正は、家康、秀忠、家光と徳川家三代に渡って使えました。
② 四神相応とは
四神相応(しじんそうおう)は、東アジア・中華文明圏において、大地の四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢や地相のことで、日本では奈良時代の和銅元年(708年)の元明天皇より「平城遷都の詔」の造営の時から都市計画の基本となる考え方とされてきました。
四神を配した地は風水としては、邪気を遮断し、福禄、無病、長寿を呼び込むとされています。
そしてその地勢とは、北に高くそびえる山があり、南が広く開けた湖沼があり、東に清き流れがあり、西に大きな道が続くものとされています。
例えば、平安京は、北の船岡山を玄武、南にあった巨椋池を朱雀、東の賀茂川を青龍砂、西の山陰道を白虎砂、とする対応付けが可能として、風水の観点から京都は四神相応の地とされました。
この風水思想は江戸開発でも基本の考えとして用いられます。すなわち、北は富士山、南は江戸湾、東に平川、西に東海道がそれにあたります。
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天海は、静岡県の伊豆半島から千葉県まで調べて、四神相応としては江戸が一番適していると家康に進言したそうです
天海は、静岡県の伊豆半島から千葉県まで調べて、四神相応としては江戸が一番適していると家康に進言したそうです
③ 陰陽五行説とは
陰陽五行説は、古代 中国 に端を発する自然哲学 の思想で、万物は木 ・ 火 ・土 ・ 金 ・ 水(もっかどごんすいと読みます)の5種類の元素からなるという説です。
この5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、常に循環する」という考えです。つまり、「常に循環する」ということは、永遠に発展し続けることを保証する、ということになります。
④ 天海僧正が最初に行った御霊信仰
江戸城を拠点に構えた天海僧正が最初に行ったのは、神田山を切り崩し、入り江を埋め立てて土地を拡張することでした。
その時、実は、平安時代の中期に朝廷に反乱を起こした「将門の乱」の張本人の平将門の首塚があった場所を出発点として祀ったとされています。それは首塚は動かさず、その近くに大手門という、大名や役人が登下城するための正面玄関を移動させていますが、その位置は江戸城から見ると鬼門の位置となっています。
つまり、鬼門は邪気や悪いものが入ってくる方向なので、陰陽道ではとても重要で丁寧な対応が必要になる方向です。
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東北は丑寅の方角で「鬼門」といいます。(だから鬼は牛の角で虎柄のパンツ姿なんですね!)
東北は丑寅の方角で「鬼門」といいます。(だから鬼は牛の角で虎柄のパンツ姿なんですね!)
そこで、怨霊として名高い平将門公の首塚をお祀りし祟りを鎮め、江戸城の守護神になっていただくという「御霊信仰」によるものと考えられます。
御霊信仰とは、祟り神を盛大に祀り敬う、つまり将門公に対し、恐れと同時に敬い、将門公に江戸幕府を守ってもらうことから始めたということなのです。
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平安時代に、朝廷を敵に回して戦い敗れた武将・平将門公への家康の思いもあったのかもしれませんね。その後怨霊として恐れられた将門公に、逆に神様として祀って邪気や悪いものから江戸幕府を守ってもらう、まさに、毒を以て毒を制すという発想です。
平安時代に、朝廷を敵に回して戦い敗れた武将・平将門公への家康の思いもあったのかもしれませんね。その後怨霊として恐れられた将門公に、逆に神様として祀って邪気や悪いものから江戸幕府を守ってもらう、まさに、毒を以て毒を制すという発想です。
⑤ 平安京に倣った鬼門封じ
江戸の根幹部分が定まると、天海はさらに周辺の要所に発展の礎を築いていきます。その要所は江戸城の北東と南西です。
さきほどの将門公の首塚の件でも書きましたが、陰陽道では、北東は「鬼門」といい、邪気が入ってくる方向で、またその正反対の南西は邪気の通り道の「裏鬼門」として要所とみなされます。
そのため平安京では、北東にある比叡山に「鬼門封じ」として延暦寺を建て王城鎮護を委ね、一方、南西の裏鬼門には大原野神社や壬生寺があり、こちらも平安京の護りとなっています。
比叡山で天台密教を極めた天海は、こうした鬼門に対する考え方を江戸に持ち込みます。それは、天海が住職を務めた上野の寛永寺です。寛永寺は寺号を「東叡山」といいますが、これは東の比叡山の意味で、平安京に倣い江戸の鬼門鎮護を担いました。さらに近江の琵琶湖に見立てた不忍池を設け、琵琶湖の竹生島と同じく、中之島に弁財天を祀るというように延暦寺に模した造りにしています。
また、ほかにも天海が行った鬼門封じとしては、現在の千代田区大手町にあった神田神社(神田明神)を現在の湯島に移すことで、将門公を祀り、そして浅草寺を幕府の祈願所として家康を東照大権現として祀りました。(ただし東照社は1642年に焼失します。)
さらに、裏鬼門も寺社で守り固めます。2代目将軍秀忠を増上寺に葬って徳川家の菩提寺とし、さらに日吉大社から分祀して日枝神社を移し、赤坂に氷川神社を配します。
そして興味深いことに、徳川家の菩提寺となった寛永寺と増上寺、そして神田神社を結ぶ直線と、浅草寺と日枝神社を結ぶ直線が交わる点に江戸城が位置しています。天海僧正はこれほどまでに徹底して鬼門・裏鬼門封じ、邪気が入り込めないように仕組みました。
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これだけ徹底した鬼門、裏鬼門封じをみるとその方角の対応がどれだけ大切かがわかりますね、そのおかげで265年江戸幕府がつづいたのなら…、天海僧正恐るべし!自宅でも鬼門対策、参考にしてみてください!
これだけ徹底した鬼門、裏鬼門封じをみるとその方角の対応がどれだけ大切かがわかりますね、そのおかげで265年江戸幕府がつづいたのなら…、天海僧正恐るべし!自宅でも鬼門対策、参考にしてみてください!
⑥ 祭りによる民衆の地鎮信仰
日本人は古くから、非業の死を遂げた人の霊は祟り神になるということが信じられていました。
こうした御霊を慰めるために、読経や雅楽、歌舞が奉じられ、これらが後に解放されて民衆の祭りになっていきます。
特に、江戸の三大祭りといえば、神田神社の神田祭と浅草寺の三社祭、また日枝神社の山王祭ですが、これらの祭りは、江戸城の鬼門と裏鬼門を祀り清める意味合いが秘められているといわれています。
⑦ 五色不動尊について
寛永年間(1624年~43年)の中頃の三代将軍家光の時に、天海大僧正の具申により江戸府内の名のある不動尊を指定したと伝えられています。
不動明王は、密教ではその中心仏とされる大日如来の化身として、悪を断じ衆生を教化するため、外には憤怒の形相、内には大慈悲心を有する庶民救済の具現者として現れた、としていて、江戸城鎮護のため、不動明王像を造立し異界から府内を保護する役目を果たしていたといえます。
⑧ 最初は五行説ではなく四神相応で配置が考えられた。
平直方の「夏山雑談」によると、江戸城鎮護のために、王城鎮護の四神にならい、四方に配置したのが、目黒(現・泰叡山龍泉寺)・目白(現・神霊山金乗寺)・目赤(現・大聖山南谷寺)・目青(現・竹園山教学院最勝寺)の四不動とのことでした。
そして後になって徳川将軍家光により江戸城を中心とした目黄不動尊(現在の養光山永久寺と、牛宝山明王院最勝寺)を加え、五行説の色として示すことになります。
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五行説で考えると位置と色が違っています。しかし密教を極め、ここまで徹底した都市計画を行った天海僧正が間違える??なんてことは考えられず、謎だったのですが、そもそもは五行説ではなく四神相応で考えられていて、あとから家光によって五行説になぞらえられたということであれば、位置と色が違っている…の意味が分かった気がしました。
五行説で考えると位置と色が違っています。しかし密教を極め、ここまで徹底した都市計画を行った天海僧正が間違える??なんてことは考えられず、謎だったのですが、そもそもは五行説ではなく四神相応で考えられていて、あとから家光によって五行説になぞらえられたということであれば、位置と色が違っている…の意味が分かった気がしました。
まとめ
いかがでしたか?
こうして天海は、四神相応と陰陽五行説、また民衆が奉じる地鎮信仰による機能的な街づくりにより、徹底した王城鎮護・邪気封じのための都市計画を行いました。
ここまで考え抜いて策を練って都市計画をした天海僧正、本当にすごい人ですよね。そしてこれまでの戦乱の時代は幕を閉じ、江戸幕府が日本を支配することになります。
次回は浮世絵などから見る、江戸の景観から色使いを見ていきましょう!