前回の色の歴史⑧ 江戸時代の色―3では、江戸時代に台頭した町人についてみていきましたが、今回は江戸の情報発信基地歌舞伎と吉原遊郭についてまとめてみたいと思います。

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悪所といわれた吉原遊郭と歌舞伎は、江戸の町人文化の流行を牽引していく場所になりました

吉原遊女街の繁栄と歌舞伎見物の流行

幕府は、厳しい奢侈禁止令を出しているにも関わらず、この吉原遊郭と歌舞伎の二か所だけは、華美な装いや装飾をすることについては大目に見ていたようです。そのため、この吉原遊郭と歌舞伎は、江戸時代の町人文化の時代の流行を作り出す、発信基地になりました。

吉原遊郭

吉原は幕府によって許可された唯一の遊里、家康による都市計画が進展するにしたがって遊郭が増えていきました。

その理由は、江戸は男性の人口比率が異常に高、遊郭はある意味、必要悪としてとらえられていました。

そこで幕府は、大坂夏の陣が終わって間もない元和三年(1617年)に江戸の葦屋町(ふきやちょう)の下に遊郭を経営することを許可します。

この吉原はのちに人口の増加に伴い、この地が江戸の中心になったため、明暦3年に起こった明暦の大火事の後、風紀上の問題から鬼門に当たる浅草寺裏の日本堤に転居を命じられ、以後250年にわたり繁栄を続けていきました。

この吉原は周囲を鉄漿溝に面した黒板塀を巡らした、総坪数2万760坪に至る広大な土地に建てられました。そこは、約300件に上る揚屋と3000人の遊女、その他、その他常時約1万人を擁する一大歓楽街であり、同時に江戸町人の一大社交場であり、文化のサロンでもありました。

その中心の吉原の花形・花魁は俗に「大名道具」といわれるように、大名などの地位の高い人とも対応する必要があり、「読み書き」はもちろん、和歌、俳諧、お茶、生け花、三味線などの多芸に秀でていなければなりませんでした。

さらに贅を極めた着物を着用しており、「その華麗なること、古今例しなき容体なり」と武陽隠士著「世事見聞録」に書かれているほどでした。

鈴木晴信「花下忘帰因美景」
鳥居清長「雛形若菜の初模様」
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衣裳や、色彩、髪型、服飾品などの流行を、吉原の花魁などが江戸のファッションリーダーとして作り出していくことになります。そして華やかな花魁道中は、まさに吉原でのファッションショーともいえる華麗なる惡の華のショーでした。

歌舞伎見学の流行

歌舞伎も華やかな正月興行、霜月の顔見世共興をはじめとする絢爛豪華な色彩空間でした。歌舞伎は「傾く(かぶく)者)を語源とする、反体制的な演劇ですが、それ以前は中世の御霊会に由来する霊的な踊りであったとしていて、初代団十郎の演じた全身赤く彩られた不動明王も、この例の力を表現したといわれています。

吉原の客は男性中心の集合体でしたが、歌舞伎の客は男女半々の遊戯空間で江戸三座に掲げられた華やかな役者の大名題看板、劇場内の場提灯、蝋燭台、三色の定式幕、舞台に採色された勝割と絢爛豪華な衣装の数々、荒事役者の赤つ面の隈取、白塗りの二枚目など、歌舞伎は一種の演技する色彩空間といえました。

豊原国周 不動明王  市川團十郎

今日の歌舞伎座の垂れ幕は、昔からの伝統を受け継ぎ、歌舞伎座は、柿色、萌黄(緑)、黒、国立劇場は、黒、柿、萌黄(緑)の定式幕を使っています。

芝居見物をした人にとって役者は憧れの対象で、役者が着用する衣裳の色が流行色となり、多くの人が真似をするようになりました。

流行発信媒体となる浮世絵

浮世絵が生まれたのは17世紀ごろといわれています。戦国時代が長く続いたことで人々はこの世のことを極楽浄土に対して、不安定で移ろいやすい「憂世」と呼んでいました。

しかし、時代が江戸時代になり、生活が安定してくると、「憂世」はやがて「浮世」になります。

浮世絵は最初は本の挿絵から始まり、徐々に一枚絵として価値を高めていきます。くっきりとした線と艶やかな色調、生き生きとした江戸の「今」を描いた絵は、次第に人々の心をつかむようになります。

この浮世絵は別名「江戸絵」とも呼ばれ、江戸の最先端を行く題材、趣向を凝らした作品を書き、人々に愛されていきます。

①広告メディアとしての役割

明和期(1764-72年)の初め、裕福な趣味人の間で絵暦交換会が流行したことがきっかけで「錦絵」がつくられ、鈴木春信らのプロの浮世絵師に作画を依頼するようになり、彫師・摺師もしれに応じ、木版多色摺技法が飛躍的に進歩していきます。

鈴木春信 花魁道中

 

②名プロデューサー 蔦屋重三郎

本の挿絵から始まった浮世絵は、蔦屋重三郎という名プロデューサーによって「吉原細見」という吉原のガイドブック誌を彩り、江戸っ子の情報誌として大ヒットします。

また、喜多川歌麿や東洲斎写楽をプロデュースし、役者や美人画の大首絵を月次に発行して、次第に歌舞伎役者や花魁などのプロマイドとして、大人気になりそれを見た町人が真似をすることで、流行の衣裳や色彩、髪型や服飾品などのファッション誌としての役割を果たしていくことになります。

喜多川歌麿「五人美人愛嬌競・八ツ山わしや」

喜多川歌麿 歌撰恋之部

東洲斎写楽 3代目大谷鬼次の江戸兵衛
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蔦重こと、蔦屋重三郎は、吉原遊郭で生まれ育ったので、誰よりも吉原遊郭のことを知っていました。その蔦重が、吉原遊郭についてのガイドブック「吉原細見」の編集者に抜擢され、吉原の各店や遊女についての情報を発信します。序文の執筆者には、あの平賀源内を起用して注目を集めるなど、それこそ現代でも通じるような手法で大成功します。

③江戸の大旅行ブームで誕生した旅行雑誌としての浮世絵

江戸時代は、まだ庶民が旅をすることは、各藩の法律で原則は禁止されていましたが、病や怪我を癒すための治療行為は認められていました

そして、江戸時代後期に入ると「お蔭参り」と呼ばれる伊勢参拝ブームが起きます。

伊勢神宮

これをきっかけに、もともと信仰を目的としていたたびが、道中の食事や温泉などが目的の旅になり、庶民の楽しみの一つになります。

伊勢うどん
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戦国時代までは庶民が旅行など、考えられなかったですが、長く続いた江戸時代だからこそ旅行が楽しめる世の中になったんですね!

日本で初の「旅行ブーム」の火付け役は、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の滑稽本「東海道中膝栗毛」です。

江戸の旅行とは

江戸時代の交通手段といえば徒歩になります。もちろん車や電車などありませんし、大名と違って庶民は駕籠(かご)などには乗れません。つまり旅といえば、歩くしかありませんでした。ちなみに江戸の日本橋から京都まで、およそ500キロの旅、徒歩では平均14泊15日かけて歩いたそうです。つまり毎日33キロ以上あることになるので、8時間以上ずっと歩いていたわけですね。

特に旅行先として人気なのは、伊勢参りしかし、江戸時代といえども旅行ができるのは裕福な人だけ?と思うかもしれませんが、貧しい人には無銭旅行という手もありました。背中にむしろを背負い、手にはひしゃくを持つのが貧乏旅行者のスタイルで、宿をとらず、橋や寺社の軒下に寝る場合もむしろを引けば寝られるということのようです。ひしゃくは沿道の人々から無料の施しを受けるときに使われたのだとか。

伊勢参りの遠藤には、お米とか、一夜の宿、など、旅人に提供できるものを紙に書いて張り出してある家や店もあったようで、はそうした分かち合いの習慣があったのでお金に余裕がなくても伊勢参りを楽しむことができたということです。

北斎の「富嶽三十六景」と広重「東海道五十三次」

江戸のそんな空気の中、版元の西村屋与八が、オランダから長崎に入ってきたベロ藍を使った富士山を描いた浮世絵を出すと発表します。

それが北斎の富嶽三十六景です。

葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏
葛飾北斎 富嶽三十六景 甲州石班沢

 

今まで見たこともない、異国情緒を感じさせる青とまた旅情を掻き立てる絵によって、浮世絵による風景画は人気を博し、さらに北斎にとどまらず、歌川広重は「東海道五十三次」などで雨・夜・月・風などを巧みに使って情感あふれる風景画を作り出します。

歌川広重 東海道五十三次 箱根
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東海道を描いた、広重の東海道五十三次は爆発的な人気を博したようです。実際に迫力のある画面からは、自分がまさにその場にいるような臨場感が伝わり、また、風光明媚な風景画からは、きっと江戸っ子も「行ってみたい」という旅情に誘われたことでしょうね。

江戸の粋

江戸の祭りの色

「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるほど、江戸っ子は華やかな出来事が大好きで、何かといえば、お祭り、祭事で盛り上がりました

お正月をはじめとして、大みそかの松飾まで、数多くの年中行事や人生の儀礼においてハレの日があります。そのハレの日を飾ったのは、陰陽五行説による祭事でした。

3月3日上巳の節句のひな祭りや、5月5日の端午の節句のこいのぼりと五色の吹き流し、、7月7日の七夕の色紙や吹き流し、や9月9日の重陽の節句などの行事では五色の饅頭や五色飴など、人々はその意味を知らずとも五色は江戸時代に暮らす人々の生活に根差していきます

お祭りでは神田明神、天王祭、山王権現祭など様々な祭りと合わせ、三か月も続く両国花火、七夕祭り、廿六夜待ちなど、江戸は年中祭りで明け暮れていました。それが、普段圧迫されていた江戸町人の粋やエネルギーを爆発させていたといえます。

歌川国郷「東都名所 両国夕涼みの図」

 

粋とは何か

政治、経済の中心が江戸に移行して、次第に江戸町人による独自の文化や美意識が生まれ、江戸の町人ならではの美意識が養われてきます

そして新興都市江戸では、都市の発展に伴い、武士階級をはじめとする体制側への畏敬や尊敬はむしろ薄くなり、そのような体制側への反抗心や反骨心をもつ「意気」が尊ばれます。

「野暮と化け物は、箱根より東にすまぬ」といい、この「野暮」に対抗する「意気地」が「粋(いき)」に転じていきます。

権力指向は「野暮」であり、彼らが着ている極際色の模様染めなどは野暮の極みで、化粧も白子粉の厚塗りを嫌いました

また、友禅の模様も花鳥風月などごてごてした模様も野暮な模様として嫌い、多くの江戸っ子は、縞柄、孔子、枡、雷文などを最も「いき」な柄として特に愛で、縞柄の着物を着ました。

鳥居清長「市川八百蔵と二美人」

この「いき」の代表的な存在が、火事と喧嘩を体現したような「町火消」「鳶のもの」などの伊達ものになり、これらの人々は、金銭感覚にがめつい人々とは反対に「江戸っ子は宵越しの金はもたない」という潔い、気風の良い生き方を信条とし、寒中でも素足に法被一枚で過ごし、権力や権勢に簡単には靡かないといった生き方を実践するという美学が生まれます。

今日でも、歌舞伎の名作に登場する町奴の播隋院の長兵衛、花川戸の助六、白井権八などの主人公たちは、まさにこの生き方を具象化した人物になります。

また、九鬼周造の「いきの構造」で、「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している、といっています。

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粋の構造では粋は、垢ぬけして、はりのある色っぽさと諦観といっていますね。

例えば、駒下駄を流行させた深川芸者のお駒さんが、その流行の発端とする駒下駄を寒くても素足でつっかけて立つ姿などはまさにその粋を体現したものといえます。

歌川国貞
粋な色、四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねず)とは

九鬼周造は「いき」を表すのは決して派手な色ではあり得ないとしています。「その色彩は、第一に鼠色、第二に褐色系統の黄柄茶、第三に青系統の紺と御納戸である」とあります。

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つまり、粋の色は灰色、茶色、紺として江戸っ子はことさら愛したようですね。

鼠色…「深川ねずみ辰巳ふう」といわれるように「いき」なものである。「粋」のうちの「諦め」を色彩として表現すれば灰色ほど適切な色はない。色彩が彩度を失い、色の淡さそのものが残った灰色には「いき」の諦めの表れとして、江戸時代には「四十八茶百鼠」という言葉ができるほど、鼠色は「いき」な色として尊ばれます。

褐色すなわち茶色…愛の象徴である原色の赤が渋くあか抜けた時に生じる茶色には、「いき」のあか抜けた色気があらわれる、として「いきな色」として愛されます。そして、江戸中期から末期にかけて、茶色は特に流行していきます。それは、江戸っ子が最も愛した歌舞伎役者が好んできた着物の色の多くが茶色で、その役者が着た色は、まさに流行色として一世を風靡するほど人気を呼び、その役者の名前を冠した茶色の色名(団十郎茶、芝翫茶(しかんちゃ)、梅幸茶など)がたくさん生まれることになります。

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なかでも二世瀬川菊之丞から生まれた路考茶(ろこうちゃ)は70年間も流行した、といわれています。

青系統(紺)…夕暮れの際に徐々に景色が色を失い、最後に残る冷たい青色などは「いき」の失われていく明るい心が表されているといい「いきな色」として愛されます。例えば、紫でも赤が強い京紫より、青みが強い江戸紫のほうが「いき」とみなされるなど、青は江戸っ子が愛した色でした。

また、これらの粋な色は、色自体は比較的地味な色なので、おかみとしては「お構いなし」の色として通っており、江戸っ子は逆にこれらの色を流行らせ、幕府の禁令に対する精いっぱいの反骨心をあらわしました。

紫へのあこがれ

男伊達に愛された色として実は「」もあります。歌舞伎の助六は紫の鉢巻をし、濃紫の着物を着て着物の下から京紅の長襦袢をのぞかせます。

豊川国周 花川戸助六 市川団十郎

 

また白浪五人衆たち(白浪とは泥棒のこと)も紫色の模様のついた着物を着て、梁瀬川で勢揃いをし、体制側の権威に対して挑戦します。しかしその紫は「奢侈禁止令(しゃしきんしれい)」のまさに対象の色。そんな贅沢な色に一般町人は憧れたので、工夫をして本来の紫としての「紫紺染め」ではなく、蘇芳から作った偽紫を使い、紫の衣服として好まれました。

 

裏勝りの美学

町人たちはお上から出された禁令には一見従うように見せながらも、小紋染めの黒の振袖の裏には真っ赤の紅絹をつけたり、男物の衣裳でも二枚の重ね着をするのが流行し、表は粋な唐山の縞で渋く見せ、裏には赤地の更紗を付けるなど、体の動きに合わせてわずかに見せる裏地の色を楽しむ「裏勝り」が流行します。

まとめ

いかがでしたでしょうか? 粋とは、体制側に向けての反骨精神を表すものであり、吉原遊郭にみる恋愛とあきらめをあらわすもの、歌舞伎役者が着る衣裳の色としての江戸で流行った流行の色であり、まさに江戸の文化を象徴するものでした。