色の勉強をしていると色の視点から見た日本や世界の歴史を勉強することになります。
日本は中国からの影響による陰陽五行説のよる色使いが古来からの考え方でした。
ここでは欧州の色の歴史となるギリシャ、ローマの色についてみていきたいと思います。
ヨーロッパの美術はギリシャ・ローマの影響を大きく受けているので、具体的にどのような色遣いだったかを見ていきましょう!
ギリシャ・ローマの色彩論 白、黒、黄、赤
古代ギリシャ・ローマの色使いについては以下のように考えられます。
ギリシャ・ローマを発生源とする、ヨーロッパ文化圏の基本的な思想を形成するものは石です。
ギリシャ・ローマの数々の遺跡や彫刻の数々は、大理石によるもので堅固な石を積み重ねてきました。
つまりヨーロッパの文化と美術は、石の造形を基本として、そこからヨーロッパの美術に表現される色彩の基本的な形態が作り出されている、と考えられます。
ヨーロッパの古代の建物は石でできているのに対して、日本は木でできているので、自ずと色が違ってきますね。
アリストテレスの説
「すべての色は白と黒の混合であり、またすべての反射は光を弱めるので、暗闇は物体による光の反射による」と論述しています。
①単一色は四元素 すなわち 火、空気、水、土につれそう色である。
空気と水は白 火と太陽は黄、土もまた、そのもとは白であるが、着色されているので様々である。
②白、黄、黒以外の色はかの単一色が「原子論的に」混合したときに、または交互に「動力論的に」調合するときに生ずる。
③闇は光のかけたところに生ずる。
④上記単一色の混合から、あるいは混合するべき色の各々の分量が多いか少ないかの比率によって生ずる色は多数かつ多種である。
中国や日本では、陰陽五行説が基本でしたが、ギリシャは4元素でした。
初期ローマの色彩論
ギリシャに続くローマの色も基本的にはギリシャの無彩色系統の色を踏襲し、白を中心としたモノクロームの世界を展開します。
ローマ美術の代表的なものとしては、凱旋門、公共建造物、競技場、水道橋、公衆浴場など数多くの建造物や数限りない彫刻があげられますが、それらは大理石をはじめ、アラバスター、石灰岩などで出来たものが多く、素地のままで用いられているので、黄褐色やアラバスター色をしたものが多かったと考えられます。
このギリシャの影響の強いローマ時代を、グレコ・ローマン・カラーと称します。
そして色彩は白・黒(青)・赤・黄の4色によって配色するテトラクロマティスムの彩色が中心となっています。
ポンペイの色彩論
ローマの色彩も時代を経るに従い、華麗な色彩に彩られるようになります。
ポンペイ・スタイル
「秘儀荘」全体は赤・緑・紫、黄によって部屋全体を彩色した華麗な空間ですが、その壁画にもポンペイレッドやポンペイグリーンなどの鮮やかな色のが背景を飾り、その前景には紫や黄色の衣裳を着た婦人たちが華麗に描かれています。
この大壁画は、俗世の婦人たちがディオニソスの秘儀を受けることにより、新しい生命を受けるという形而上的な主題を描いたものではすが、背景が赤―緑の補色配色を中心にしていて、紫—黄などのコントラストの強い配色を意識的に使用しています。
さらに前景のディオニソスや神々、俗世の婦人たちがそれぞれ黄色と紫の衣裳で表現されています。
このポンペイの赤や紫は、ローマ人の嗜好色としてローマ軍人や兵士の外套、兜、また貴族や聖職者の衣裳の色として用いられました。
特に紫はローマ皇帝の禁色であり、これらの色が高貴ローマのメイン・カラーになっていきます。
ローマ市民の服
ローマ市民は市民の特権であるトーガという長衣を着ましたが、皇帝に許された元老院の高官はポイントに紫の布地を使用したものを着用し、一般には、白と決められていました。
この白は宗教的な意義をもつもので、外衣は常に清潔にしておくように言われ、汚れた外衣は貧乏の印とされました。
女性は男性より自由な色を用いることが許されましたが、紫だけは許可されていませんでした。
その他の色の使い方
一般の婦人の外衣は赤、または青 また喪章の時は黒のリボンを頭に着けました。
ローマの花嫁→サフラン色の襟巻 ・尼僧→オレンジの式服を着用
ローマで最も高貴な色は紫
英語で「be born in the purple」とは「皇太子が生まれる」の意味です。そのくらい紫は権威の象徴でした。
紫の染料は貝紫(アクキ貝)から分泌物から採取されますが、1gの染料を得るために2000個の貝がいるため、銀に劣らず貴重なものでした。
クレオパトラはアントニウスの気を引くために、船の帆をすべて貝紫で染め上げて、彼の元に馳せ参じたと伝えられています。
最初に紫でトーガを染めた皇帝はジュリアス・シーザーといわれていますが、特に暴君ネロの時は、紫の着用は皇帝のみに限るという法令を出し、この法令に背いて紫を販売したものは、即時営業停止、および商品の財産の没収とされました。
さらにテシオドシウス1世時代にはこの紫禁止令は極限に達し、法に背いて紫を使用した人は死刑に処せられています。
この紫はローマ帝国が東西に分裂した後も続き、東ローマ帝国の皇帝たちによっても愛好されましたが
特にコンスタンチヌス8世(912~959年)は紫を礼賛したため、「ポリフィロゲニトウス(紫に生まれるの意味)」と称されました。
いかがでしたでしょうか。今と違って昔は身分制度で色を使うことには制約があり、自由に使えませんでした。
色が自由に使えるということは決して当たり前ではなかったのです。
自由に色が使えることに感謝したいですね…。
洋の東西を問わず、紫は身分が高い人しか着られないまさにVIP中のVIPしか着られない色。そのため、紫のイメージは上品なイメージがしますね。