フィンセント・ファン・ゴッホ「夜のカフェテラス」

色の歴史 世界編 6では、18世紀のロココ時代の美術や色についての文化をみてきました。

ここでは、18世紀と19世紀に発展した色の文化について見ていきましょう。色の歴史 世界編5で見た、ニュートンによるスペクトルの発見後、ゲーテによって人間の心理的な色の捉え方が注目され、その理論が絵画で応用されます。さらに18世紀〜19世紀につくられた新しい色材によって、さまざまな絵画技法が可能となり、今までの絵画では見ることが出来なかった色彩表現を可能にしていきます。

光学研究

17世紀〜18世紀にかけて行われた、ニュートンの色彩に関する実験は、その後の18世紀、19世紀を通じて最大の実験となり、物理学、光学、色彩学などの分野でニュートン学説やニュートン学説の流れをくむ、ニュートン学派が、色彩学の主流になります。

ゲーテの色彩論

「ファウスト」の著書で有名な文豪ゲーテ(J.Wゲーテ 1749-1832)は、1790年のはじめにニュートンの理論を実験するために、1個のプリズムを借りてきて、白い壁に投射して見せましたが、期待に反して、壁は白いままだったため、「直感により、ニュートンの理論が間違っていることを確信した」と述べ、このことをきっかけに、その後20年に及ぶ色彩研究にゲーテを駆り立てることになりました

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ゲーテのプリズムの実験の失敗は単純にやり方の問題だったようですが、そのニュートンに対する反発心が違う形で結実することになります。

ゲーテはその著書「色彩論」を3部作で書き上げ、以下のことをまとめました。

・ゲーテはプリズムを通して白と黒の物体を観察したが、この時、白・黒の境界に色があらわれたため、白と黒から色が生ずる、というアリストテレスの説に賛成した。

→これは科学的ではない、ということで「色彩論」は長い間、低く評価されてきましたが、現在は見直され、特に「教示編」の、対比や補色残像、色光をものに当てると影が色づいて見える現象(色陰現象)などの人間の生理的・心理的な現象の面で高い評価を得ます

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ゲーテは画家でもあったので、人間が実際にどのように色を見るかを考察するという姿勢で、例えば、黄色を見た後に青紫の影を作るなどの補色残像を発見したことは、その後の理論家や芸術家に大きな刺激を与えることになります。

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ゲーテはニュートンを非難し続け、その集大成が大著「色彩論」という形で集約されます。ご興味ある方は本が出版されているので読んでみてください。

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ゲーテが色彩学にもたらしたもの

ニュートンは色彩を物理学的、光学的、工学的に扱おうとする自然科学の立場で臨み、ゲーテは生理学的・心理学的な視点で色を解明しようとしたという立場の違いによるものでしたが、このことが結果として科学的な分野と人間の精神に与える生理学的な分野での色の発展につながりました。

ゲーテの影響を受けた画家 ターナー

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 「自画像」

19世紀のロマンはの旗手であるイギリス人の画家ウイリアム・ターナーは、1843年に「光と色彩(ゲーテの理論)  洪水のあとの朝ー創世記を書くモーゼ」と「影と闇ー洪水の日の夕べ」を描きます。

この2つの作品はゲーテの色彩理論に賛意を表し、その色彩理論にそってこの絵を描き上げた、ターナーといっています。

ゲーテの理論は、すべての色彩を正(プラス)と負(マイナス)を含んだ色に分け、正を赤・黄・緑にし、その意味は「幸福、喜悦、明朗などのすべての暖かさに結び付けた感情を表す」として、反対に負は、寒色系の青は暗さや沈着を象徴し、青から派生した紫やすみれ色は悲しみや落胆を暗示する」としました。

そしてゲーテの理論に触発されたターナーは1820年の半ばから、「光」をテーマにして描き始めています

J・M・W・ターナー 「解体されるために最後の停泊地に曳かれていく戦艦テメレール号」

ターナーの作品は、同時代の人にはそれほど高く評価されませんでした。しかし、ターナーが亡くなって20年の歳月が流れたのち、このイギリスにやってきて、彼らよりずっとまえに「光を描く」ことに一生をささげた画家に深い敬愛の念を持ち、多くのモノを学んだ二人のフランス人の画家がいました。その二人はのちの印象派の指導者となるモネとピサロでした。

モネ「印象 日の出」
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ゲーテの、ニュートンに対するお門違いとも思える反発心から始まった色彩研究は、なんと美術史上最大の色彩革命と呼ばれる、印象派へと続くという、歴史の必然性を感じさせる流れを作るということになります。

色材の発展

天然素材の変遷

画家がどんなに技術を駆使しても、それを表す色材がないと実際に描くことは出来ません。19世紀までは、そのほとんどが古代エジプト時代以降から使われているもので、そのすべてが自然から産出される動物や植物、鉱物からもたらされるものでした。

また、大航海時代、コロンブスの新大陸によって発見され、また、インド方面に進出したおりの熱帯地方で育成される染料など、欧州にとっては新しい色材は、「新しい色」としてその発色や染色における利便性から、それまで使われていた染料からとってかわってしまうほどの影響を及ぼしました。

その代表的な例が、「赤のケルメスとコチニール」、「青の大青とインディゴ」です。

ケルメスとコチニール
コチニール

コロンブスの新大陸が発見によって「コチニール」が紹介されるまでは、赤を染めるには「ケルメス」という虫を使っていました。ケルメスは非常に高価でしたが、中世には普及し、枢機卿の衣裳などにつかわれていました。しかし、16世紀に新大陸から「コチニール」というサボテンに寄生しているエンジ虫が紹介されると、「ケルメス」よりも「コチニール」の鮮度のほうが遥かに優れているため、赤を染め上げる色として「コチニール」が欠かせないものになり、その結果「ケルメス」を消滅に追い込んでしまうことになりました。

 

 

大青とインディゴ
インディゴブルー

藍色の「藍」ですが、「藍」という名前の植物はなく、葉に「藍」の色素を含んでいる植物を利用して染めたものが藍色になります。そのため「藍」の色素をもつ植物は世界中にあるため、この「藍色」は茜色と同様、世界最古の染料の1つです。

ヨーロッパで青を染める染料は、インディゴが輸入されるまでは、「大青(たいせい)」という染料を使っており、ヨーロッパの中世では、「大青」という言葉は「財産」を意味するほど富をもたらしていました。しかし、英語の「インディゴ・ブルー」は大航海時代にインド方面に進出した際、熱帯地方で育成したインド藍が本国に持ち帰ったことから使われるようになります。当初ヨーロッパでは、「大青(たいせい)」が市場を独占していたため、インディゴを使うことに大青栽培農家は強く反対していましたが、1618年~1638年の30年戦争によって大青農場が荒らされ、青を染める染料には、インド藍の「インディゴ」がその地位にとって代わることになりました。

 

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インド藍は、ヨーロッパのような寒いところに生育する「大青」と比べて、格段に濃く優秀でした。そしてこのインド藍はヨーロッパ諸国にとって、対インド貿易の輸入超過の一因となりますが、18世紀後半、イギリスがインドを支配するに至り、その市場を独占し、インディゴブルーは世界的な流行色になりました。

合成無機顔料の発見

18世紀から19世紀にかけて新しい合成無機顔料が次々と発見されました。

プルシャンブルー
プルシャンブル―

人工的につくられた顔料としては最も古いものです。ベルリンで染色をしていたディーズバッハと錬金術師のディッベルが赤い顔料(フローレンスレーキ)を作ろうとして偶然発見した青色顔料でした。当時安価な青い顔料はほかになかったため、陶磁器の彩色などに広く使われました。

そしてプルシャンブル―は江戸後期にオランダを経由して輸入され、目の覚めるような濃い青は、葛飾北斎の「富嶽三十六景」や歌川広重の「名所江戸百景」で見ることが出来ます。

 

葛飾北斎「富嶽三十六景」

 

19世紀の新顔料の特徴…黄色と緑が多い

18世紀までの絵画にはほとんど見られなかった鮮やかな黄色と緑の顔料が19世紀になると使われるようになります。

クロームイエローとカドミウムイエロー
クロームイエロー

クロームイエロー…フランスの化学者のヴォ―クランが析出したクロームイエローは、クロム酸鉛を主成分とし、黄鉛(おうえん)と呼ばれました。そして、その10年後には絵具として用いられるようになり、ゴッホの「ひまわり」に使われた色として有名になります。クロームイエローは黒変する特徴があり、それがゴッホの黄色の独特な色合いを出しているといわれています。

カドミウムイエロー…硫化カドミウムを主成分とする橙黄色~黄緑の顔料です。高彩度で不透明性が高いので描画効率が良く、堅牢性が高いため(色が退色しづらい)多くの画家が愛用しました。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ「ひまわり」

 

ビリジアンとクロームグリーン
ビリジアン

ビリジアンは1856年、フランス人のギネが水酸化クロムから作り、製造特許を取った顔料です。

クロームグリーンはクロームイエローとプルシャンブルーを混ぜて作られました。

緑系のクローム顔料は、美しい緑の絵具を作るのに役立ちました。それまでは風景画の草木の色は茶褐色に描かれていましたが、緑のクローム顔料の出現により、ありのままの自然の美しい緑が表現できるようになります。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ 「裏返しの蟹」
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自然の中で目にすることが多い、「葉っぱの緑色」が再現できない、ということを意外に思う人も多いかもしれません。しかし、葉っぱの緑色の色素である「葉緑素」というのはとても脆弱で、水ですぐに流れてしまい、その色を永続させることが難しい色素です。そのため、長いこと自然のモノから緑色を得るには、マラカイトグリーンなどの鉱物など、ごくわずかな緑の色材しかありませんでした。

赤・オレンジ系

カドミウムレッドとカドミウムオレンジ…旧来の赤やオレンジより、はるかに耐光性や安定性が高く一段と光彩を放つ色が得られるようになりました。

カドミウムレッドやオレンジは、カドミウムイエローと同じ硫化セレン化カドミウムですが、セレン化物を添加することで赤みが増し、カドミウムオレンジやレッドを作ることが出来ました。

コバルトブルー、セルリアンブルー、ウルトラマリンブルー
コバルトブルー

コバルトブルー…コバルトアルミン酸塩の顔料・19世紀中ごろから絵具として使われるようになります。

印象派の画家が多く使用しました青として有名です。

セルリンブルー…元来は「空色」の意味ですが、19世紀に錫酸コバルトを主成分とする青色顔料の名前として定着します。

 

 

ウルトラマリンブルー
ウルトラマリンブルー

 ウルトラマリンブルー…天然石のラピスラズリは大変貴重な顔料として高価なもので、金と取引をされ、ウルトラマリンブルーを使って描く時は、イエスや

聖母マリアを描く時など、ごくわずかな場合に限られており、ラピスラズリがイラクから海を越えてやってくるので

「ウルトラマリンブルー」(海を越えてくる青)と呼ばれていました。

しかし、19世紀前半から人工的に合成され、工業生産されるようになりました。

 

合成化学染料の発見

ウイリアム・パーキンによる紫の発見

1856年、世界で初の紫色の合成化学染料がウイリアム・パーキンによって作り出されます。この染料は布地を染めることができ日光や洗濯に堅牢であることから、この染料が技術的に製造可能なこと、また商品化における成功性を見抜き、商業化に成功し後に巨万の富を得ることになりました。

モーブ
モーブ

パーキンによってつくられた紫は、ゼニアオイの花に似ていることから、リヨンの染料業者によって「モーブ」と命名され、1858年から10年間、ファッション界で大流行しました。

1856年のパーキンによる「モーブ」の成功は、合成顔料の発見にも大きな刺激を与え、様々な合成顔料を生み出すことになりました。

 

マゼンタ
マゼンタ

1859年にフランスの化学者が合成したアニリン染料の色の名前。当時、英仏連合軍がオーストリア軍に勝利したことを記念してその地名「マゼンタ」を色の名前にし、経済的な成功をおさめます。

マゼンタはフクシャの花の名前からとって別名「フクシャ(フクシン)」ともいわれています。

 

茜色
茜色

1868年ドイツの化学者グレーべにより、世界中から待望されていた染料の1つである、茜(アカネ)色染料のアリザリンの合成に成功します。アリザリンは1869年にはわずか1トンだったものが、2年後には220トンにまで達し、年間7万トンを生産していた茜色業界に大きな影響を与えるまでになりました。

そのため、その後は天然茜の使用は少なくなり、現在では、水酸化アルミニウムで先に媒染したものをアリザリンで染色する方法で作られています。

 

まとめ

こうして18世紀から19世紀にかけて、これまでにないような色が作られていき、画家は絵具の選択が自由になった分、絵画の表現技法へ力を注ぐことが出来るようになりました

そして美術の世界では、19世紀末以降、様々な絵画の技法や表現があらわれましたが、その裏にはそうした表現を可能にできる豊富な色材が揃ったということは注目に値するものでしょう。こうしたことを理解したうえで絵画を見るとまた違った見方ができ、絵画鑑賞の幅も広がりますね。

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18世紀の合成無機顔料や19世紀の合成化学染料の発見により、伝統的な植物染料は化学染料に取って代わられ、人類の着色材料はほとんど合成化学の製品に置き換わることになりました。こうして増えた、膨大な色を体系的に理解するために、マンセル表色系やオストワルト表色系などの、「色彩を体系的に理解しよう」とする試みが始まることになります。