色の勉強をしていると色の視点から見た日本や世界の歴史を勉強することになります。
ここでは、戦国時代の色との関わりをみていきましょう。
戦国時代の武将たちは色をどのように使っていたかを見ていきましょう!
戦国時代
諸国の大名を二分して、京都の町を主戦場としてはじまった応仁の乱(1467年)は、11年にわたります。
この争いにより室町幕府のそのものが実質的に権力を失い、威信の消滅によって、それぞれの地方にいた実力者が機を見ては、上洛して幕府にとって代わる機会を伺うようになります。
東は北条氏康、今川義元、織田信長、越後からは上杉謙信、甲斐の武田信玄というように、戦国大名による下克上・群雄割拠の時代に移ります。
そうした戦いの中での色においてはとても大切なことがあります。
それは、自分がどの部隊に属しているか、戦場にあって自分の存在をいかに味方にアピールするかがとても大切なのです。
つまり、言ってしまえば、敵を何人倒したとか、敵の大将をやっつけた、という実績をどれだけ残すかが年俸に関わるので、合戦中の個人的な手柄が後々の恩賞や所領の拡大といった利害に直接結びつき、ひいては一族郎党の繁栄につながるのです。
それではそれぞれの武将たちの色使いについてみていきましょう!
自分の身に何かあったときなど、自分がどのように活躍したかをきちんと伝えてくれる人がわかるように、衣裳を目立たせることが大切だったんですね。
武田信玄の赤い騎馬軍団
日本全国で激しい国盗り合戦が展開された戦国時代で、武将たちは赤の陣羽織を好みます。赤は味方の勇気を鼓舞し、敵を圧倒させる心理をあたえる色です。
特に武田信玄の家臣が率いる赤備えは大変武勇に秀でて、現在でも赤備えといえば「武田軍」といわれるように強く知られています。
戦国時代、初めて赤備えを用いた武将は、武田信玄の重臣の飯富虎昌だといわれています。赤は大変高価な色で多くの首級を上げた家臣が大名から特別に賜る色でした。
また、赤は戦場で目立つので逆に的になりかねない色でもあります。その赤の特性を逆手にとり、自らの活躍でしか褒美を得られない、各武将の次男以下の者で騎馬隊を組織し、敢えて敵を引き付けるために赤部隊を結成しました。そしてその活躍は目覚ましく、のちに赤備えが精鋭部隊の象徴になっていきます。
川中島の決戦で上杉軍を駆逐した武田軍は、軍旗から鎧の威、軍使の母衣(ぼろ)に至るまですべて赤で染め抜かれていたといいます。
そして、戦国時代になると、殺傷力の高い鉄砲の導入など、軍備の増強と兵士の数が必勝の条件になります。つまり大きな合戦では、個人戦というより、高度に組織化された集団戦に変わっていきます。
そうした中、赤の集団はどれほどインパクトがあったことでしょう。
戦場となる緑の平原の中で、その反対色の補色の赤の軍団は相当強力なインパクトを敵に与えます。
また赤は進出色であり、出っ張って見えるので兵士の数が実際よりも多く見せることができ、視覚的脅威を敵に与えることができます。
また赤は血の色を目立たせないため、接近戦でケガをした場合でも、兵士の戦士喪失を防ぐことが出来ると考えられます。
まさに戦国時代最強の武田軍とうたわれたその強さの秘密の一つに赤を上手く使った色彩戦略もありそうですね。
進出色の赤の軍団をみたら、相手はきっと見ただけで恐怖を感じたことでしょうね…
戦国時代のベストドレッサー 上杉謙信
山形の上杉神社には、上杉謙信が着用したといわれる胴服(羽織のようなもの)が保存されています。それは当時貴重だった舶来の金襴緞子など十種類以上の裂(きれ)類をつなぎ合わせたもので、パッチワークのような印象を与えます。
当時としては非常に斬新なデザインで、まさに海外ブランドの布地でつくったパッチワークを着ていたイメージだそうです。
そんな斬新なデザインを謙信は平素の室内着にしていたそうです。
またほかにもポルトガルかスペインの船が運んできたヨーロッパ製のビロード地に南蛮人を描いているものや、ほかにも紅地に総刺繍という華麗なものやペルシャ製のモールで伏せ縫が施され、裏地には中国明製の緑地菊唐草文様が使われているものなど、多彩な衣装を持っている武将でした。
そんな上杉謙信が合戦のファッションに用いた色は黒!
史実の上杉謙信が率いる軍団は黒い色を基調とした合戦装束であったそうです。
毘沙門天の化身といわれた最強軍団
「上杉謙信が出てくると、敵は雷雨を避けるがごとく城にこもった。」
謙信はそう語られるほど、敵から怖がられていたそうです。
生涯の多くを戦場で過ごした謙信の合戦の回数は、確実なものだけで70余りといわれています。謙信の姿を見ただけで逃げてしまう敵も多く、それらまで含めるとどれほどの数になるのか、しかも敗れたのは局地戦で2回のみという…すごい勝率です。
その最強軍団の黒がどのような効果があるのでしょうか。
武田軍の赤が燃える火のイメージであれば上杉軍の黒はすべての光を含む闇の色。まさに謙信自身、非常に熱心な仏教徒で自らを毘沙門天の化身と信じていたそうです。そんな謙信の黒は戦場において、それこそ巨大な黒の塊が軍神謙信の号令のもと、一糸乱れず向かってくる様は、敵の目には異様な迫力とあわせてさぞや不気味な集団で、武田軍の赤と並んで脅威を与えたと思われます。
それぞれの性格を表す信玄の赤と謙信の黒
武田信玄はより領土拡大のために戦いを繰り返していたのに対して、上杉謙信は侵略を目的とした戦いは一度もなく、まさに外にエネルギーが向かう赤を信玄が使い、外からの強い圧迫に抵抗する反骨精神の象徴ともいえる黒を謙信が使っていたというのは、まさに二人のイメージ通り。
謙信は、宿敵信玄が窮地の時は塩を甲斐に送らせたという話があり、まさに律儀で義侠心を物語る孤高のヒーロー像のイメージです。
好き嫌いや私利私欲ではなく、助けを求めてきたものには正当な理由があれば誰にでも力を貸すという謙信。敵の侵略を受けて、苦境に立つ人にはまさにヒーローです。
しかし現実問題、領土の拡大を望めない、人助けの戦国武将はめちゃくちゃかっこいいですが、何の見返りもなく家臣はなぜ謙信に従ったのでしょうか。
青苧(越後上布)の普及
一つは越後の名産・青苧(あおそ・越後上布の原料)の輸出です。戦乱で荒れた直江津(なおえつ)港や柏崎港を整備し、また謙信自ら上洛した折には、京の公家や寺院と交流をして販路を広げました。これにより、「上流階級が愛する越後の上布」のブランドイメージが醸成され上方で珍重された青苧は莫大な収入源になります。
金の算出
越後では金が産出されました。またほかの山間部から豊富な鉱物資源を獲得することが出来、こうした財力があったため、謙信は領土を拡大しなくても軍資金を心配せず戦い続けることが出来たといわれています。そして、手柄を立てた家臣には、土地ではなく十分な報奨金を与えたため、家臣は納得して従ったと考えられます。
謙信は戦いだけではなく、商才もあったんですね…
織田信長を魅了した南蛮渡来の色
「尾張のおおうつけ」といわれていた織田信長。
子供のころはだらしない服装で、髪は派手な色の紐でくくり、腰には火打石やひょうたんなどを沢山ぶらさげ、派手な朱色の刀を差し、栗や柿などを食らいつき、人にもたれかかってだらしなく歩く。 そんな姿をみた家臣は思いました…「織田家も終わった…」と。
そんな愚か者の姿は、実は計算された姿だったそうです。信長が「吉法師(きちぼうし)」といわれていた頃は、かなりの優等生で、水泳や馬術また兵法にも精通したまさに文武両道の若武者だったそうです。
そんな信長がうつけになったのは16歳のころ。その理由は2つあり、1つは暗殺を未然に防ぐことと、2つ目は敵の油断を誘うこと、という目的があったそうです。
信長が子供のころは、今川義元などの強敵に囲まれて織田家は追い詰められていました。
もし信長をあがめる雰囲気であれば、当然マークされ必死になって暗殺されることが予想されます。そのため、信長はうつけのふりをして周りを欺いていたのです。
自分は相手の脅威になるような人間ではない、と偽っていたと思うと、人の予測を裏切り意表をつくような戦い方をして新しい時代を作っていった信長らしさを感じますね。
そういう意味で見れば、温暖な駿府で京風の文化を慈しんでいた今川義元は、信長の敵ではなかったわけで、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで信長は、今川義元を破り、勝利をおさめます。
信長、京に上洛
桶狭間の戦いで勝利した信長は、三河の徳川家康と結び、越後の上杉謙信が挙兵しないとみると永禄11年(1568年)に上洛します。
京の町に入って信長が目にしたものは、応仁の乱以後、復興しつつあった華やかな姿と、キリスト教という、今まで体験したことのない南蛮文化が到来していた京都の文化でした。
信長に影響をあたえたもの
キリスト教
京都の町には南蛮寺が建てられ、赤いマントを着用した外国人が歩いていました。そして翌年には宣教師ルイス・フロイスと会見し、キリスト教の布教を赦すことになります。このように信長は都の動きに俊敏に反応します。
茶道
京都のほかにも、中国の明の船や南蛮船が到着する堺と、街道筋の大津、草津の地が政治を司るための要所でした。とりわけ堺は中世からの海外貿易で富を得た同朋衆が街を支配していて、彼らは金銭的に豊かであり、さらに茶道もよく心得ている教養高い文化人の集まりでもありました。その堺の町を信長が管轄することで侘茶(わびちゃ)の指導者千利休と出会うことになります。
異国の文化
堺には千利休だけではなく、異国の文化がもたらされます。それは鉄砲や衣装や飾り物などであり、信長はそうしたこれまで見たこともないものに触れ、どんどん吸収していきます。
フロイスの記録では、信長の部屋には、ヨーロッパ製の衣服や緋色のマント、頭巾、羽飾りのついたびろうどの帽子、聖母マリアの金メダル、コルドバ産の革製品、時計、豪華な毛皮のマント、華麗な切子ガラス、絹、緞子、シナの羊皮、猟虎の着物などがあったと記されています。
またこの当時、西洋の流行色であった、コロンブスの発見により新大陸からもたらされたカイガラムシから採ったコチニールという動物性染料で染められた赤は、茜色の赤とは違いちょっと紫みを帯びた冴えた赤で、信長の目にはさぞモダンで新鮮に映ったと思われます。
また尾張の清洲に住む、伊藤惣十郎という人物に印判を与えて、唐人方という輸入呉服と国産の呉服を扱う商人司に任命していますが、これがのちの伊東松坂屋、つまり、今の松坂屋百貨店の発祥となります。
海外の新しい文化を目の当たりにした信長が、すべてを貪欲に吸収しようとしているところがさすがですね!
華美の世界にはまる
豊かに調達される海外品物や染織物の数々は、信長の楽市楽座によって、より促されて全国に普及していきます。
そして信長はその翌年の天正4年、安土城を築いてその地位を確固たるものにしますが、その安土城の復元されたモデルには白・黒・朱色・金色に塗りあげられた外壁や、瑠璃色と金色で覆われた屋根瓦など、実にカラフルに彩られています。また内部も豪華絢爛で、資料によると壁面という壁面は、狩野永徳の墨絵やきらびやかな金碧画で占められ、さながら美術館のようであったといわれます。
そうした豪華な安土城を建てた信長は、天下統一に向けて自分の権威や力を誇示したこととあわせ、海外に向かってのアピールも考えられます。それは、当時数多く日本を訪れた宣教師たちを盛んに安土城に招いたことやまさに型にはまらない自由な発想力と独創性にあります。
黒いサムライ
後日来日したヴァリニャーノは事前にフロイスから、信長の好みを聞いており、沢山の土産物のほかに「黒人」を一人献上したとのこと。
信長は、たくましい黒い肌に驚き、墨でも塗っているのはないかと疑い体を洗わせてみたという話があります。
そして、信長はこの黒人に「弥助(やすけ)」という名前を与え、どこに行くにも連れて歩いたといわれます。
信長の優れた資質に、「人を身分ではなく、能力で判断した」というものがあります。その最たる例が、農民出身の豊臣秀吉を自分の家来にしたこともあてはまります。
このように初めて目にする南蛮渡来のモノや人をみて、信長は世界の広さを肌で実感し、貪欲なまでに吸収しようとします。
信長が建てた安土城はぜひ見てみたかったと思いますね!
豊臣秀吉が愛した黄金
信長の後を受けて天下統一を進め、より強固な体制を整えた豊臣秀吉もまた尾張の百姓の出で、出世する前は藁で髪を結い上げ麻布一枚を腰縄で縛り、野山を駆け回っていました。
しかし権力の座に近づくほど、美しい衣装を異常なまでに欲しがるようになります。
豊臣秀吉というと誰もが思う色は黄金。
有名な金の茶室をはじめ茶道具、部屋の調度品、小物、果ては普段はく草履や下駄まですべて金箔塗にこだわった、というほど秀吉の黄金趣味は徹底しています。
信長や秀吉が活躍した安土桃山時代は、ポルトガル人が来航したことで通商が活発になり、国内の商工業が急速に発展した時代です。
それに伴い、鉱業もさかんになり、各地の鉱山で金の産出量が飛躍的に増大し、日本は一種のゴールドラッシュでした。
黄金を戦略的に用いた秀吉
「本能寺の変」で信長が死亡した直後、世の中の最大の関心事は、誰が信長の後釜に収まるかということでした。
そこで秀吉は、「自分こそが信長の真の後継者である」ということを天下に宣言するために、大阪城の建設に着手し、その城の上部は金箔の瓦が用いられていました。
実はこの金箔瓦は、織田家以外は使用してはいけないブランド品。つまり、秀吉は大阪城を手始めに、信長ブランドの金箔瓦を自分の一族や家来の居城に次々と使用することで、信長の正当な後継者たる存在であるということを強烈にアピールします。
そしてさらに、秀吉が関白になり天下人としての地位を確固たるものにすると全国の軍事拠点に金箔瓦屋根の城郭を築城したり、また徳川家康の息がかかった大名の白の屋根瓦を金色に塗り替えるよう強要します。
これにより太閤秀吉の全国規模の統一政権をPRすると同時に自分の地位を脅かす徳川家康をけん制する狙いがあったのではないかと考えられるそうです。
絹糸に執着した秀吉
秀吉はのちにキリスト教の信仰やバテレンの追放を命ずることになりますが、異国のモノには異様な終着を見せたようです。その中でも異彩を放つものに、秀吉が着用したといわれるペルシャじゅうたんを切り取って仕立てた陣羽織が伝えられています。
それこそ世界広しといえ絨毯を服にしたのはたぶん秀吉一人ではないかと思われます。
天正16年にはポルトガル船がマカオを経て、長崎に入港したおりには、秀吉は船が積んできた生糸をすべて買い占めさせようとしたり、さまざま形で生糸を独占するよう命じていて、異常なまでの絹に対する執着を感じさせます。
絹は古くから日本でも養蚕は行われていましたが、質と生産量では中国が抜きんでていました。つまり織物には中国からの輸入品としての絹が欠かせなかったのです。
衣裳に執着した秀吉
当時の大阪城を訪ねた人が見た秀吉の持ち物には、小袖や白綾がぎっしり入っていて衣裳持ちとしては天下無双という記録があるほど。
事実、秀吉は海外の珍しい赤地のビロードや絨毯を身にまとい、さらには国内で染められた辻が花という手間のかかる華やかな小袖や紅や緑に染められた糸で生地一面に刺繍を施し、金箔まで置いた豪華な縫箔の羽織を着用しています。
このようにまさに天下人の秀吉は豪華の極みとしての衣裳をまといますが、実は赤も秀吉が好んだ色です。
黄金の茶室といわれる茶室は、実は赤がちりばめられた赤の茶室でもあるようです。それは、熱海のMOA美術館で復元模型が見れるようですが、障子、ふすま、畳など、かなりの面積で真紅が使われて金箔との相乗効果でまさにきらびやかな空間になっています。
現代のオフィスでも赤の部屋と青の部屋の話があります。
赤の会議室は企画会議や戦略会議などより活発な意見が求められる時に使われ、青の会議室では具体的なプランを確実にまた慎重に進めていくときや金銭的な計算が必要な時に効果的です。
そういう意味で考えると秀吉の黄金の茶室では、まさに積極的な論議が繰り広げられたのではないかと想像すると楽しみが広がりますね。
まさに天下人を目指す秀吉の茶室にふさわしい感じがします。
まとめ
いかがでしたでしょうか。これまで見たように、まさに群雄割拠の戦国時代は、その武将の資質が色に現れているとも言えますね。
そして天下人となった信長や秀吉は、これまでの常識にとらわれることのないほかの武将とは一線を画すものでした。