色の勉強をしていると色の視点から見た日本や世界の歴史を勉強することになります。
ここでは、権力が貴族から武士に移った時代の色との関わりについてみていきましょう。
ここでは、日本の歴史上の人物でとても愛されている源義経についても見ていきます!
平氏も源氏も天皇の子孫
平安時代は一夫多妻制なので、天皇は多くの子孫を残しました。そのため、皇族の数が増えすぎてしまい財政を圧迫していたため、皇子を皇族の籍から外して臣籍に降下させ氏を与えます。(これを賜姓皇族(しせいこうぞく)といいます。)
代表的な「氏」には、源氏・平氏・藤原氏・橘氏があり、その頭文字を並べて「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」(四姓)と呼ばれます。
1.平氏
「平(たひら)」の氏は、平安時代(794-1185)の始まりの桓武天皇の時代に生まれました。
第50代天皇である桓武天皇は、積極的に政治に関わり、様々な改革を起こったことで有名です。特に中国の官吏制度をまねた律令制度を整備し、また東北の蝦夷討伐なども行います。また、平安京(京都)へ遷都を行った天皇として有名で、その後約1100年にわたって。日本の中心となる平安京(京都)を築いた、きわめて優秀な政治家です。
桓武天皇の皇子たち
桓武天皇には多くの皇子がいましたが、帝位は平城天皇が引き継ぎ、その弟たちは「親王(しんのう)」という位になりますが、その一人に、幼い時から才知に優れた葛原親王(かずらわらしんのう)という方がおり、その長男の高棟王(たかむねおう)を「皇子から外し、臣籍に降下させたい」と申し出て、平朝臣(たらいのあそん)という氏性を賜り「平高棟(たいらのたかむね)」を名乗るようになりますが、これが平氏の始まりになります。
そして、高棟王(たかむねおう)の弟である高見王の子(桓武天皇の曾孫)高望王(たかもちおう)は寛平元年(892)に平朝臣を賜り、平貴望(たいらのたかもち)と名乗り武家平氏の祖となりました。日本史でも有名な平将門、平清盛、北条氏、坂東平氏の一族はすべてこの平高望(たいらのたかもち)を始祖とする流れです。
2.源氏
桓武天皇の次男の嵯峨天皇もかなり多くの子供を残しました。そのすべての子供の生活費を天皇家の財政で賄いきれないことが危惧され、そのことから、弘仁5年(814)に「源」の氏と、皇族以外の臣下の中では一番上の地位である「朝臣(あそん)」の姓を賜り、皇子を臣下の籍におろしますが、これが源氏のはじまりといわれています。
「源」を授かった氏族が「源氏」になりますが、実はこの源氏には天皇ごとに様々な流派があり、その数は21もあるそうで「源氏二十一流」と呼ばれているそうです。この源氏二十一流のいくつかの流派が存続することになりますが、中でも嵯峨源氏、宇多源氏、清和源氏、村上源氏が有名です。そして、この第56代清和天皇を起源とする清和源氏の嫡流としているのが、源頼朝です。
*ちなみに平氏は4流だそうです。
武士のルーツの国司(こくし)について
武士の始まりは「国司(こくし)」という役職になります。
源氏や平氏のような賜性武士(しせいぶし)は、諸国へ中央政府(京都)から行政官として派遣された官吏である「国司(守・介・橡・目)」がルーツです。今でいう都道府県知事のような役職になります。
国司は赴任先の管内では、絶大な権力を持ちましたが、中央の上流貴族である、藤原道真などから見れば、護衛兵のようなもので、明らかに貴族より身分が低いものでした。そのため、源氏も平氏も中央に戻っても出世できる保証がないため、まだ未開の地であった関東を開発し、領主となって勢力を拡大しながら、その権利を守るための武士団を形成して、その土地の治安を守ることで中央政府での地位も向上させることが出来ました。
平安時代後期になると、平氏は源氏に次ぐ大族となり、関東各地に土着して武士団を形成し、のちに坂東平氏(ばんどうへいし)と呼ばれるようになります。こうして中央にも影響力を持つ平氏の基盤が固まります。
貴族社会から武家社会へ
藤原貴族文化は「雅」の世界で、さらには「美しいものに遊ぶ」という生活文化を追い求めるところにありました。
そして、当時流行した末法思想により「浄土教」の影響で「仏いじり・庭いじり」といわれるほど、自己邸館、別荘の華美を競う風潮に没頭し、ついには政治に対する信頼を失墜させるに至ります。
そして、この時期は僧兵の強訴や群盗などがはびこり、不安で揺らぐ世情に変化することになり、武士の力を必要とされます。
保元の乱(1156)では、平清盛と源義朝が後白河上皇方につき勝利したものの、源氏一族内での内紛があり、その後の処遇で、義朝が冷遇され不満をためます。
その後、平治の乱(1159)では、平清盛と源義朝同士が争うことになり、義朝が敗北。その後平家の政権が樹立されますが、源氏の権威が凋落していきます。
しかし、源義朝の子である、源頼朝が幼少期に一命をとりとめて、伊豆に流されてから、平家打倒の令旨(1180)を受けて源氏の棟梁として頼朝が挙兵し、源平合戦へと進み、ついには壇ノ浦の戦い(1185)で平家を滅ぼすことになります。
これをきっかけに源頼朝が鎌倉幕府を開き、本格的な武家政権を確立したことで、貴族ではなく武家が政治を動かす時代が到来します。
源頼朝は武士の地位を押し上げた功績から、武家の棟梁と呼ぶにふさわしい一族として、認められていきます。
武家のファッション
鎌倉を中心とする武士たちは、滅亡以前の平氏が、かつて藤原貴族の生活に憧れて、贅沢を極め、ついにはそれにおぼれていったその轍は踏みたくないと願っていました。
つまり、鎌倉幕府開幕の精神である、尚武(しょうぶ)の精神と、当時もたらされていた禅の精神とを合一させた武家文化を形成していきます。
それを表しているのが「張り」の象徴としての剛直性と「威し(おどし)」の象徴としての華麗な色彩です。
色彩…権力による社会的秩序を象徴していた色彩は、その公的な性格が薄れて、次第に私的な性格が強くなります。
1.武士の衣服
衣服は、平安時代は狩りの時に着用した「狩衣(かりぎぬ)」と水干(すいかん)」を礼服としました。
*狩衣(かりぎぬ)…男子の平安装束の一つ。もともとは狩の時に着用したのでこの名前がついたが、活動的であることから次第に普段着として定着した。(今では神主さんでその姿を見ることができます。)
*水干(すいかん)…男子の平安装束の一つ。名称は糊を付けず水をつけて張った簡素な生地を用いるからとも、晴雨両用に便利で、簡素な服飾狩衣よりもより実用的。
つまり、今でいうところのスポーツウエアが礼服になったイメージです。
そして生地は厚手の硬いものを選ぶか、糊をつけてゴワゴワさせるなどして、硬い直線的な形式を好む、いわゆる「強装束(こわしょうぞく)」とするなど、「張り」の精神の象徴といえます。
2.威し(おどし)の色
貴族文化の影響の名残として、鎧や兜に紫や緋色、茜などを用います。
大将や嫡男の鎧直垂(よろいひたたれ)は錦の赤で、副将や次男は紺を用います。
といわれ愛用しました。3.武家女性の衣服
公家社会の女性は女房装束といわれた十二単などの華麗な衣服でしたが、武家の女性は実用本位になります。
唐衣(からぎぬ)・裳(も)・表着(うわぎ)・袿(うちき)・単(ひとえ)という構成で、さらには、唐衣も表着も省略されるようになり、どんどん簡略化されていきます。
平安時代の貴族の時代の衣服は、優雅でお金がかかったものでしたが、武士の時代となると動きやすさも大切になり、色々なものが省略されていきました
武士が好んだ色
平氏・源氏から始まった武士の時代ですが、戦いの中で実はとても大切なことがあります。
それは、自分がどの部隊に属しているか、戦場にあって自分の存在をいかに味方にアピールするかがとても大切なのです。
つまり、言ってしまえば、敵を何人倒したとか、敵の大将をやっつけた、という実績をどれだけ残すかが年俸に関わるので、合戦中の個人的な手柄が後々の恩賞や所領の拡大といった利害に直接結びつき、ひいては一族郎党の繁栄につながるのです。
なので、よく時代劇などで戦う前に自分の名前を名乗ったりしますが、どこの誰が誰と戦った、ということを見ている人が拡散してくれるようにすることが、実はとても大切で、敵味方が入り乱れる戦場においては、自分の手柄や戦いざまを少しでも味方に印象付ける工夫は、とても大切だったわけです。
そこで、歌舞伎の「勧進帳」にもみられる、歴史上の人物で必ず上位にくるスーパースターの義経の色の使い方を見ていきましょう。
源義経 人より目立つ攻撃
義経は非常に意外性に富んだ戦法を得意とする、天才的な戦術家でした。特に有名な「一の谷の逆落とし」や「屋島の奇襲」「義経八艘とび」といった数々の武勇伝を後世に残したのですが、色の効果を上手く使ったのが「屋島の奇襲」です。
義経は村中の農民が持っている牛をかき集めて火を放ち、驚いて大騒ぎする牛たちを源氏の大群に見せかけて、義経側はわずか150騎の兵力しかない中で、平家の本陣に突入するという奇襲戦で、平家の度肝を抜きます。
1.とにかく目立つ!義経の装い
その時の義経の装いは、炎に浮かび上がる紅裾濃(くれないすそご)の鎧(よろい)!その下は色鮮やかな赤地錦の直垂と、まさに源氏の総大将でなければ身に着けられない豪華ないでたちで颯爽と先陣を切ったのです。
*直垂(ひたたれ) とは、左右の前身頃を引き違えて合わせて着る垂領(たれくび)の上衣と、同色の袴を組み合わせた装束。雅楽の楽師の一般的な服装としてみられるもの。
これによって平家は源氏軍の総攻撃を受けたと思い込み、我先にと海上へと逃げ出しました。
2.義経が目立たないといけなかった理由
源頼朝と異母兄弟の義経は、頼朝と対立して悲劇的な最期を迎えます。
義経は平家全盛のころ、鞍山に幽閉され、のちの奥州藤原氏に身を寄せて不遇の少年時代を過ごします。
やがて腹違いの兄、頼朝が源氏を再興したのを機に、源氏の嫡流として名乗りを上げますが、頼朝は彼を血を分けた兄弟としてではなく、一介の家来として扱い、冷遇し続けたといいます。
そんな頼朝に自分の存在をアピールするには、戦で手柄を上げるしかなかったのです。そして壇ノ浦の戦いでも先陣を切って戦場を駆け抜け、頼朝の勝利に貢献します。
しかし、義経は頼朝の許可なく、朝廷から官位を受け、頼朝の怒りを買ってしまいます。そして、これまでの独断専行や越権行為を容認できず、頼朝は義経を朝敵とみなしてしまします。
義経の死から、弱者や敗者を同情する「判官びいき」という言葉が生まれましたが、頼朝が義経に嫉妬したと解釈されていますが、現在では、義経が頼朝の政治構想を理解していなかったのではないかといわれています。
頼朝は朝廷とは別に政務を行うことを目指して鎌倉幕府を開きますが、義経はあくまでも朝廷から官位を受けて出世することが頼朝にとって良いことと解釈していたようです。
つまりそれではいつまでも朝廷の下に武士がいる、という構造から抜け出せないのですが、義経にはそれが理解できていなかったとのこと。
そんな義経は、実は人並外れて小柄で貧相な体格だったそうです。
源平合戦で、実は軍旗は源氏は白で平家は赤だったのですが、外に向かって自分を主張する進出色である赤の鎧を着用した義経は、少しでも自分を大きく屈強に見せる最大の武器でもあり、兄の頼朝に認めてほしいという心からのアピールの色でした。
いかがでしたでしょうか?源義経は悲劇の主人公として愛されていますが、新しい時代への流れには乗れなかったのかもしれませんね。それでも認めてもらいたいという心の叫びが聞こえるようでやはり切ない感じがしました。