前回の色の歴史⑧ 江戸時代の色―2では、江戸時代の景観の色についてみていきましたが、今回は江戸時代に暮らした人々がどのような色を使っていたか見てみたいと思います。

江戸時代は、新しい政治体制や組織、経済、文化が生まれた時代でもありました。特に戸の中期以降は、経済的な実権を握った町人が台頭し、町人文化が誕生して、武家社会とは異なる独特の文化が生まれることになります。

また、今回は江戸文化を表す「粋」という言葉の意味も見ていきたいと思います。

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江戸っ子というと「粋」という言葉が出てきますが、粋とはどんな価値観なんでしょうか?今回それを見ていきたいとおもいます。

初期の江戸時代

徳川家康が幕府を開いたころは、まだ織田信長や豊臣秀吉による、豪奢な桃山文化の名残があり、上方の町人たちの雅な文化が残っていました。

染色では、辻が花などの華やかなものが中心で絵画の分野でも、華麗で大胆な琳派の作品や伊藤若冲長澤蘆雪、池田雅などが独創的な絵画を創造し、狩野派とは異なる世界観を作り出し、武家や豪商を中心とした華麗で雅な文化が継承されていきます。

狩野派…室町時代中期から江戸時代末期まで、約400年にわたり活動。室町幕府の御用絵師となった、狩野正信を始祖とし、室町幕府崩壊後も時の権力者の絵師として活動します。

陰りが見え始めた幕府の財政状況

江戸幕府を開いてからおおよそ50年ほどが過ぎた、4代将軍家綱の世になると、幕藩体制は落ち着きを見せ始めるものの、金山や銀山の埋蔵量もへり、幕府の財政に陰りが見え始めます

これまで博多・堺・京都の商人たちは、その時々の権力者と組み、特権が与えられ、それを看板に商売するという形をとりますが、幕府の財政が傾き始めると、大名などの武家や公家が困窮するようになり、「貸し倒れ」「大名貸し」となっていきます。

台頭する商人たち

地方においては農業が振興され、生産力は一段と高まりを見せ、自給自足の生活から、江戸、京、大阪という都市またほかの地域へ販売する流通経路の充実も図られていくようになります。

そこで都会には、問屋業が生まれ、金銭をあらかじめ用意してそれらの商品を買う、という形が広まりました。

このように江戸が独自の文化を持つようになったのは、諸国の大名などの武士階級の財政的ひっ迫に対する、豪商をはじめとする江戸町人の財政的台頭があげられます。

特に江戸には課税制度がなかったため、地方から大勢の商人や農民を招来することになりました。

江戸の大火

明歴三年(1657年)、本郷丸山本妙寺から出火した火は、江戸の町を瞬く間に焼き尽くし、江戸城本丸から三の丸まで焼け落ちるという大惨事が起こります。

そしてその11年後に、また江戸は大火に見舞われることになり、華美を極めた大名の邸館や衣裳などは灰燼に化すことになります。

奢侈禁止令(しゃしきんしれい)

こうした火事などにより、幕府の財政がひっ迫すると、幕府は倹約令を出し、また輸入品の制限などを行う対応を取り始めます。

また武家階級の邸館・居住の簡素化や、生活全般が質素な傾向になっていきます。

しかし、貯蓄と機敏な商才で富をもつ商人や町人は、店舗を粗末に装いながら、生活内容は贅を楽しむようになります。

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奢侈禁止令というのは、贅沢禁止令ということで、町人が力を持ち始めたことに危機感を感じた幕府はいろいろな規制をかけるようになったのですが、その奢侈禁止令の目を掻い潜って見せる反骨精神が、意気から粋へと進化します。

おしゃれを楽しむ

特にこの時代に富を蓄えた町人たちに支えられ、吉原遊女街が繁栄し、歌舞伎芝居見物なども流行して、町人も外出着を意識するようになってきました。

石川六兵衛の妻

延宝8年(1660年)に将軍になった綱吉は、

あるとき、上野の寛永寺に祀られている徳川代々の墓を参拝した帰り、町家を歩いているととてもいい香りがしたので、それに引き寄せられて行ってみると、金の簾をかけて、金屏風で囲った女性が振り袖姿で立っていて、周りのモノに、伽羅の香をたかせて金の扇子であおがせているところに出くわせます。

調べると、それは浅草の石川六兵衛の妻で、六兵衛は豪商で贅を尽くした屋敷をもち、そこに幕府の役人や大名を招待しては豪遊していて、その妻も夫に負けず出会り、とくに自慢の着物を着て競い合う「伊達比べ」では負け知らずという人物。その妻が聞香して遊び惚けるありさまを目にした将軍綱吉は、贅沢極まりない所業に激憤し、六兵衛を追放し、屋敷、財産を没収する、という事件があったそうです。

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六兵衛の妻は、当時、江戸で一番のおしゃれを誇っていて、「伊達自慢」といわれる「衣裳比べ」はとても有名でした。六兵衛の妻は、京都まで相手を探し、そこで京都一番のおしゃれ番長の難波屋十兵衛の妻に勝負を挑みます。十兵衛の妻は、洛中図を縫い取りしてあるという小袖なのにに対し、六兵衛の妻は、シンプルな黒羽二重に南天が刺繍して歩きものですが、その南天が珊瑚を縫い付けたもので、このアイデアにみんな度肝を抜かれ、軍配は六兵衛の妻に上がったとのことでした。

江戸っ子気質

大火の後の倹約令などにより、人々の風俗も必然的に変化していくことになりますが、しかし、火事があってもすぐ立ち直る、江戸っ子気質・「明日は明日の風が吹く」「宵ごしの銭はもたぬ」といった気概もうむことになります。

江戸で起こった火事は大小合わせて1798回を数え火事は庶民にとっては当たり前のことでした。庶民の家屋も現代の私たちから見れば、びっくりするほど簡易なもので建てられていて、火事で焼けても再建するのは簡単でした。

また、当時の庶民たちの家財道具は少ないので、必要なものだけを持ち出し逃げやすかったようです。

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「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があるように、けんかっ早くて派手好きな江戸っ子には火事は一大イベントだったようですね。

新しい文化の登場

寛文小袖

染色の世界においては、辻が花などのような着物全面に刺繍や文様が施され、贅を極めたものが衰退し寛文小袖(かんぶんこそで)といわれるものが注目されるようになります。

寛文小袖は、余白を活かしながら、文様を流れるように配されるのが特徴で(右肩から斜めに流れるような文様構成が多い)、これまでのように着物全面に柄や刺繍を施すものより、簡易で安価なものが主流になっていきます

こうした新柄意匠と新しい衣装は、京と江戸で「新撰御ひいながた」という、衣裳文様見本集のようなものが続刊され、こうした情報源が発信されることは、呉服商人の勃興と繁栄につながりました。

新しい業態の誕生

このような世情の中、伊勢の松阪から出てきた三井高利(たかとし)は、長兄から譲り受けた呉服商をもとにし江戸日本橋本町に店舗を開き一般に小売りを始めるようになります。

それは京都の室町に仕入れ店を設けて、京都において制作される着物や帯を江戸に運び販売する、というものです。その販売は「現金掛け値なし」を貫き通し、一日百五十両もの売り上げをして、日本一の商人へとなっていきます。

三井は、町人に富が広がり、かなりの人々が余裕のある暮らしをはじめていることを知り、町人が武家や公家階級の華やかな生活に憧れを抱き、自らも美しく装いたいという願いが芽生えていたことをよくよく理解したうえで店を開店しました。

このように幕府の禁令に触れるような豪華絢爛な衣裳ではないけれど、出世した町人の気持ちをくすぐるような、洒落ていて、しかもどこか華やかな衣裳が求められていきます

友禅染の誕生

京都の祇園の中にある扇屋に、宮崎友禅斎という絵師が扇を書いて売っていました。友禅斎はもともとは、日本画の絵かきでしたが、扇絵を少しでも量産しようと、染色に使っている米糊を使って衣裳を表そうと考えました。

つまり、花や鳥などの文様を表すのに、その輪郭線を青花で下絵を描き、糊を筒に入れてその線状におき、その周りの空白を顔料や染料を使って彩色して、華麗な絵柄を表現するという手法を使っていました。

友禅斎の扇は、祇園の町を行きかう多くの人々が買っていきました。この元禄時代の世の中の文化を多くの人が楽しみ・娯楽を求める世情にあって、友禅斎は扇を量産できる技を開発する必要性があったと考えられます。

やがて、この友禅斉が発明した技は、華やかな色彩で画面が美しくなることと、目新しさとあいまって町人たちに目を付けられ、当時流行した小袖、振袖に取り入れられていくようになります。

もう一人の天才・尾形光琳

宮崎友禅斎とほぼ時を同じくして呉服屋雁金屋・尾形宗謙の次男として光琳が誕生します

尾形光琳は、武家の力がだんだん衰え、それに代わって振興町人の力が興隆する時代に生まれています。そんな尾形光琳の生家は、時代の流れとともに傾いていましたが、豪放な性格で放蕩三昧していたそうです。

しかしさすがに限界を感じ、比較的豊かな暮らしぶりの二条綱平という人を頼り、伺候を繰り返す日々を過ごしながら、画業にいそしむという日々を過ごしていたようです。

衣裳比べ

尾形光琳は、二条綱平の紹介で中村内蔵助(なかむらくらのすけ)という、豪商に紹介されます。

そして、内蔵助の妻も夫君の富を背景にぜいたくな生活を送っていて、あるとき、その妻から京都の東山で衣裳比べが行われることになり、光琳に打ち勝つ方法を教えてほしいと願います

そこで光琳は、白無垢の重ねに黒羽二重の打掛を着るようアドバイスをしたところ、色彩的には地味ではあったものの、金糸や友禅の華やかな衣装の中にあって、黒はことさら人目を引いて内蔵助の妻が勝つ、という光琳の目論みは見事に当たり、満座の喝采を浴びたそうです。

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六兵衛の妻もそうですが、やはり贅沢になると、持っているものを人に見せびらかしたかったり、人と競争したくなるのが、人の気持ちなんでしょうかね…。

尾形光琳は、伝統を持った呉服屋の生まれで、そうした呉服商の栄光は過去のものとしたうえで彼は、呉服屋としてではなく、雛形文や、様々な工芸品の衣裳を手掛け、現代でいうところの画家とアートディレクターを兼ねた仕事をしていた、といえます。

まとめ

いかがでしたでしょうか?江戸時代以前は公家や武家が文化の担い手だったのが、戦乱の時代がすぎ、平和な時代になると富裕層の町人がその文化を担うことになりました。引き続き、町人が愛した歌舞伎や吉原については、色の歴史⑨ 江戸時代の色―3でみていきます。